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褪せて乾いてほどけて無くなる言葉を救出するために。映画『スパゲティコード・ラブ』

 夢やら愛やら努力やら幸せといった、「ヒトが生きていく果てに目指すもの、あるいはその手段」を表す言葉の力がここまで脆弱になったのはいつからだろう。脆い。そして、 
そういうのってダルい。

 昭和の時代でもあるまいし、日本中の人々が同じ「幸福像」を持って額に汗かき働いて生きるなんて、2022年を迎えようかとしているこの時代、それこそキモいで片づけられる話だ。実際にそんな時代があったことはこの際どうでもいい。

 それよりも、『スパゲティコード・ラブ』という作品が、どういう事情か知らないが都内に3館しか観られる映画館がなくて、一日一回、しかも今週末には終わるスクリーンもある、という事実は大いなる機会の損失だと思うのだ。

 描かれている13人の登場人物と、東京という街、いわゆる「群像劇」と呼ばれるであろうこの映画が切り取った物語は、はたしてリアルなのか、「いやそんなやつマジいねーし」なのか「どーでもいいけどダルそう」なのか、わからない、わからないけれど、そんなダルさやウザさやめんどくささを口にする「今を生きる」若者(ばかりではないが)が、その心の中に本当に秘めているのは、そう、「昭和の時代でもあるまいし」な夢であり熱であり、生であり死であり、そしてなにより愛なんじゃないか、いや、そこはそうでなくてはならない、そこは変わっちゃいけない、という、「かったるい」誰かの思いなんだろう、と受け止めた。

 映像はスタイリッシュでカットは短くてリズムがあり、希死念慮、諦観、不倫、そんなネガティヴな要素までぶち込んでもなお、スクリーンに描き出される絵は美しい。
 いくらでも「ステレオタイプ」であると批判されそうな隙だらけの作品ではあるけれど、登場人物たちはみな涙を流し何かを諦め傷つき逃げて裏切られて、だからこそ、物語の終盤にゆりやんレトリィバァが発するセリフ、

「死なないで。毎日ちゃんと生きて。すごいことだから。それ」

 が、どんな批判もなぎ倒し、賞賛でさえも横目に流すほどの強度を持ち、

夢やら愛やら努力やら幸せといった、「ヒトが生きていく果てに目指すもの、あるいはその手段」を表す言葉の力を、今一度、コロナで歯車が狂った世界に於いて救出する様を、素直に受け取った。しっかりと受け取った。

それが、客の入りが寂しいカリテで僕が涙した理由である。

それこそが、解読不能のコードを紐解き、美しくコーディングし直していくという希望がかすかに頬に触れた、確かに触れた、と感じた理由である。


※金髪の倉裕貴が風を切ってデリバリーサイクルを走らせる姿の美しさを観るだけでもこの作品を観る理由になる、と思った。

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