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配慮 vs 妥協

そんなこんなで保育園でまた過ごす日々。
若いから•男性だから子どもから人気あっていいねーって
今も昔もよく言われます。
前は『それだけのおかげじゃないもんねーぷんぷん』って思ってましたが、若さと少数の方の性別万歳くらいには思える今日この頃。大人になりました。
(まぁ明らかに意図してない懐き方をしてくる時もあるから本当にそのおかげも多分たくさん受けてます。ありがとう若さ。)

自分の現場ではそんなに思うことはないのだけれど、
保育園や学童、学校に入ると『発達の差』を意識せざるを得ない。させられる?してしまう?どれだろう。

あの子は〇〇(診断名)なので、この部屋にいるだけでいいです。

これ以上の伝え方が難しいのはもちろん理解出来るし、自分も同じように伝えてしまうかもしれないけれど何だかもやっとしてしまう。

だからといって何も声掛けをしないこと、手や眼を届けないことは配慮なのだろうか。診断名にかまけた妥協なのだろうか。

そして、診断や肩書きはなけれど、その子と同様に集まりに入らない(入れない?)子たちへの声掛けの有無や対応はどこまでが意図の内側なのだろうか。これも『配慮』という言葉に甘えた『妥協』なんじゃないのか。

そんな疑問も自分に問い続ける。

自分のどんな行動が彼らにとって良いきっかけになるんだろうか。どう向き合うことがプラスになっていくんだろうか。

自分の現場の子達に対してこんな葛藤はあまり抱えない。配慮をしていないのか。妥協していないのか。
いや、配慮も妥協も意識下でも無意識下でもしている。
無意識のうちにこれは言う、これは言わないをそれぞれに合わせてやっている。と言うとかっこいいけどゆっくり考える余裕すらないだけなのかもしれない。
常に最善だとは思えない。

きっと、何も言わないことが何もしないことが正義だとするならば(二極化する話じゃないけどね)、僕がしている今の対応を否定しているようで嫌なのかもしれない。もう少し普段の僕の行動も深掘りして考えたい。

ただ、伝えないこと何もしないことが最善策な場合ってあまりない気がする。
伝えなきゃいけないことは伝えなきゃいけない。
知っておかなきゃいけないことは知ってなきゃいけない。
遅かれ早かれ彼らは僕らの手を離れるのだから。

配慮というのは、きっとその伝え方•向き合い方に思考を凝らすことなんじゃないかな。基本的にはゴールは一緒。
進む速さと進む道が違うだけ。
今の時点ではそう思う。

、、、というようなことを考える日々が始まった。
楽しい。うきうきしちゃう。
何をしてあげることが、何をしてあげないことが最善か。
答えのないものにエンドレスに時間を割いていこう。

満開の桜を背にお茶で泥団子を作る人たち。

ここ最近、小学生以上しかほとんど関わってなかったから、保育園児の人間初心者感がたまらない。(小学生組も中学生もわけわからんけど。)

1日目にして、〇〇組で誰が一番好き?なんて聞いてくるし、怒って服に噛みついてくるし、ママがいいって僕にしがみつきながら泣くし、5人に一人は上靴右左逆だし。
相手がどんな肩書きで、どんな人で、どんな状況でも
ゆっくり一人ずつ人として向き合って、
あなたのことを大切に思ってるということを伝えられる人でありたい。

たくさんチヤホヤされて、2日目にして言われるとても軽く薄っぺらい大好きをたくさん受け取ってとてもいい気分です。
僕も口癖のように『のすけの方が大好きだけどね』って返しちゃうけど。

いまは、『若いから』『男だから』『なんか優しいから』くらいの軽い根拠かつ3対4くらいの大好き対決だけど、いつのまにか揺るがない根拠に固められた99:100の大好き対決になっていくんだろう。

このお互いの大好きや大切が少しずつ実感のあるものになって、中身の詰まったものになって、本当になってかけがえのないものになっていくこの過程をしっかりあゆんでいきたい。

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