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嫌われない努力より、好きな人を見つける努力

嫌われるのは自然の摂理だった

「嫌い」という感覚は実は、
とても曖昧な状態で絶対的なものではありません。

天気でも、
晴れの日が嫌いな人もいるし、
雨の日が大好きな人もいます。

しかし、1人の人間でも、晴れ好き雨嫌いの人が、
コンディション次第で、
疲れている時は、晴れが嫌だなと感じたり、
雨の日が心地良いということはザラに起きます。

好き嫌いというのはそれくらい、
結構曖昧なところを行き来しているということです。

そんな曖昧で、
かつ1人1人の趣味嗜好は無限に広がっているこの世界で、
嫌いな人間を1人もつくらないというのは、
食べ物を食べて、う〇こをしないくらい不自然なことです。

全く意味のないことを
繰り返すということになるため、
永遠の徒労となることが間違いありません。

嫌われる=自分の価値の減少ではない

嫌われないのは生物として無理
ということが、頭では理解できても、
実際に嫌われると気分が良くないものです。

嫌われたくないと思うのは人情です。

極論、きっと嫌われることが不快でない
状態は一生来ないと思って良いかなと思います。

ですが、嫌われることを恐れるという
ことの問題点は、

嫌われる=自分の価値の減少
という誤解をもとに自分を判断してしまう
点にあります。

実際にはどれだけ嫌われても、
自分の価値は変動しません。
反対に好かれたとしても、価値は変動しません。

ですが、自分の価値の減少するのであれば、
自分を嫌いになる人は少ないに越したことはありません。

大好きなあの人も嫌われている

大好きな有名人をイメージしてみてください。
その人は全ての人から好かれているでしょうか。
一部の人には強烈に好かれているが、
一部の人には強烈に嫌われてないでしょうか?

あんなに大好きで魅力的なあの人の価値は、
嫌いな人が生まれたことで、減少したでしょうか。

全く減少していないはずです。

次に割合のことを考えてみます。

その有名人を好きな人の割合は、
全国民の半数を下回り、20%程度だとします。
反対に嫌いな人は60%を上回ったとします。

嫌いの割合が多くなった瞬間に
その有名人の価値は減少したのでしょうか。
減少していないはずです。

身近な人大好きな人が、
大多数に嫌われていても、
価値は変わらないはずです。

自分のことだと価値が減ったと感じがちですが、
自分の好きな人をイメージすると、価値が減少していない
ということに気づけるものです。

友達の恋愛相談には饒舌にアドバイスできる
みたいな感じです。

主体を自分に取り戻す

さらに言うと、好かれる嫌われるかは、
最終的に決定権はいつでも他人にあります。
嫌われない様に生きるということは、

他の人に判断を譲渡するという行為です。

そこに自分の決定権はありません。

限りなく好かれる様に促すことは出来ても、
好く権利も、嫌う権利も相手側にあります。

この決定権のない状態が、
嫌われたくないという強い感情を生むものだと
考えられます。

自己決定権のないものに介入すると、
一生不安でいるしかないということになります。


冒頭で挙げた天気がよい例で、
固定化された好き嫌いがあるわけではありません。

その日やその時期のコンディション、
相手側の生い立ちや、価値観など、
様々な要素をもとに変動しています。

そこをコントロールしようというのは、
非常に難しいものであり、
そこに執着してしまうと強い苦悩が伴います。

自分は誰が好きかの方が大切

では自己決定権があるのは、
何かというと、まぎれもなく、
今、ここにある自分の好き嫌いです。

コントロール不能な、
相手側の好き嫌いにアプローチをするよりも、
自分自身の好き嫌いに敏感になり、
それにのっとって、「誰といるか」を決めていく。

ということになるかなと思います。

そして、個人的な経験からは、
自分が好きな相手は、結構自分のことを好きである
ということが多いものと感じています。

少なくとも、
自分が好きで相手がすごく嫌って来る
というケースは思いつきません。

好きという時点で何らかの
相手との相性の良さを自分が読みとっているから
なのではないかなと思います。

どうせフォーカスするのであれば、
誰かに嫌われていないか?
とビクビク生活しているよりも、
自分は誰が好きで誰と一緒にいたいか。
誰と会話がしたいか?

ということに意識を向ければ、
明らかに楽しくなってきますし、
決定権が自分に戻ってきます。

相手が自分を好きになってくれるかは、
別問題ですが、少なくとも、
その好きな人に対して関わろうとすることは出来ます。

好き嫌いは打率みたいなもの

かつてほぼ日で有名な糸井重里さんが、
イチロー選手が打率ではなく、ヒット数を
目標にしていた例を挙げて、
「好き嫌いは打率みたいなもの」といった
ことをおっしゃっていました。

確かになあと思いました。

他の様々な人の影響を受けて変動してしまう打率より、
ヒットという自分自身で積み重ねて減少もしないものに
イチロー選手がフォーカスしていたというのは、
すごく人間の心理として大切なことを語ってると思いました。

自分の好きは自分で選べる。
その結果好かれるか嫌われるかどうでもいい人になるか
それは打率みたいなもので、
結果論にしかならないということです。

嫌われても自分の価値は減らないし、
そして、その嫌われない様にアプローチしても、
コントロール不能などころか必ず嫌われる。

ネガティブな意味ではなく、
人はどうせ必ず嫌われます。

それだったら好きな方にフォーカスしたいものです。















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