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なーんもしない勇気


よく、疲れた日に

「なーんもしたくない」

という言葉を吐いてました。

そして、そんな疲れてないのに、

「なーんもしたくない」

と、言っていました。


そして、時間が出来ると、

「なーんかしなきゃ」

と、何かをしようとしてました。

何かを強烈にやりたいわけではない。
だけど、なんかしてないと不安。
だから、何かしようしている。

という状況。

しかも、
やりたいことがないわけではない。

それは、「金になりそうなやりたいこと」が、
見つからなかっただけでした。


「金にならなそうなこと」
「資本主義社会の中での価値をあげること」

が、なんかやらなきゃの
なんか根本です。

だから、本当は

「なーんもにしたくない」

を、求めている自分の心は無視して、

「努力っぽいなにかをする」

を繰り返して来ました。


で、何か形になったかといえば、
そんなこともありません。


僕がやった方がいいのは、
「努力っぽいなにかをする」
ではなく、


なーんもしない

なのです。


でも、それには勇気がいるわけです。


それは、、、

失う勇気。

ほんとーは、努力してたら、
こうなれてたはずの自分を失う覚悟。


でも、本当は努力しても、
嫌々やってるから、身になるわけもなく。


どっちにしても失うという。笑

失う勇気が持てない奥には、
恐怖があります。
そして、強烈な執着も。


その恐怖と執着で、

べきべきの塊と化してしまっているのです。


だから、勇気をもって、
10分でもいいから、


なーんもしない時間


をつくる。


そして、生産性もクソもない無駄に見えていた、
お金にならないやりたいことをやる。


ということ。


これをすでに実践中。
もー、これは努力できないなと思ったから。


ぼーっと、
なーんもしない時間を意図的に使ってます。


そして、
サッカー見て、
サッカーゲームやって、
進撃の巨人見て。

を繰り返す、何度も非生産的な時間を作ってます。


しかし、、、

めっちゃ楽しい!!!!

満足度がまるで違います。
罪悪感なく楽しめるのもいい。


本能的なものを取り戻している感覚があります。


これは、勇気が必要ではありますが、
とっても必要なことだなと。


そう考えると、
あらゆるやりたいことが、
お金と代替出来る対象として見られるのは、
つまんないなーということ。


お金は好きだけど、
お金の奴隷になる社会になってる。


どっちが主体だったのかを思い出さないと。


やりたいことやるためにお金を求めたのに、
お金のためにやりたいことを抹殺していては、
本末転倒ですよね。

なーんもしない時間。
大切にしていこう。

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