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舞台上に晒された「わたし」と出会う

今度こういうことするし、

こういうこともするので、ニュートラルマスクとクラウンについて語ろう!

ニュートラルマスクとクラウンは、フランスのルコック国際演劇学校のプログラムで扱われるもので、その学校での2年間は、ニュートラルマスクに始まりクラウンに終わる。
ちなみにルコックとは、ジャック・ルコックというヨーロッパを代表する演技指導者のこと。もうお亡くなりになっていて、僕は直接指導を受けたことはないが、彼のお弟子さんや彼の学校で学んだ人達から考え方やワークを教わった。

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ニュートラルマスクは「中性・中立の仮面」と言われるもので、キャラクターがない仮面だ。
僕達は、一人一人が個性(癖ともいえる)を持ついわゆるキャラクターなわけだが、このニュートラルマスクにはそれがない。つまりニュートラルマスクは、キャラクターになる以前の「人間」なのである。
俳優として様々なキャラクターを演じ、感情を表現するためには、まず僕らは無地のキャンパスになる必要がある。
これはそのためのマスク。表情がないからこそ、一人一人の身体が浮き彫りになる。ちょっとした動きや形が大きな意味となり、物語を生む。それを知ることが出来るのがこのマスクの面白さだ。

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対してクラウンの赤鼻は、世界で一番小さいマスクであり、表情が丸見え。だから自分自身が曝け出される。ニュートラルマスクとは全く逆のマスクのように思えて、両方とも自分自身が曝け出されるものなのが興味深い。

この2つの違いは「正解が明確か否か」だ。
クラウンは「お客さんの笑い」を取ることが目的なので、笑いの有無で正解がわかるのだが、ニュートラルマスクは正解がわからない。暗中模索で「ニュートラルとは?」と探っていく、実に孤独な作業だ。
僕の印象だが、クラウンは恐れと向き合い、ニュートラルマスクは曖昧さと向き合うものだと思っている。

ちなみにニュートラルとは、一人で成立するものではない。
姿勢が良ければニュートラルかというと、そういうわけではない。それでは「シュッとしている」とか「バレエダンサーっぽい」という印象を与えてしまう。
大切なのは、お客さんから見てニュートラルに見えるか否かだ。

僕はよくリアルとリアリティの違いを話すが、それに近い。
リアルとは個人の中に、リアリティはお客さんとの関係性の中に生まれる。そして俳優はリアリティを作ることが仕事だ。リアルはそれを作るための材料に過ぎない。
いくら自分の中でニュートラルや自然体を感じていても、それが身体に現れていなければ意味がない。お客さんと演者の間のスクリーンにどう写っているかが重要なのだ。

ニュートラルマスクも、クラウンも、どちらもお客さんとの関係性の中で生まれる「わたし」と出会うことになる。
これはなかなか体験出来ないことだ。普段の演技では何か別のキャラクターを演じたりしているわけだから。
だが大前提として、舞台に立っているのは、紛れもなく「わたし」であり、そこが出発点となる。そこが恐れや不安を感じていたり、癖にまみれていたりしたら、鎧の上に服を着るような演技になってしまう。
まずは手放し、ありのままの「わたし」を舞台に晒す。それが「舞台に立つ」ということ。そこを原点にするから、色々な旅が出来る。

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