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自由を与えるとは、責任を与えること

先日、フルマスクの演技をしている時に発見したことがある。
それは「やることを決めてもらう方が、自由を感じる」ということだ。

最近定期的に開催しているシアターマスク研究会では、1月の公演に向けて作品創作を行っている。
1人が演出家となって設定を持ち込み、逐一ディレクションを入れながら、それぞれの作品を作っていくというやり方だ。
その中で、ぴかること塚越ヒカルの演出が非常に印象的だった。

それは、設定を与えられず、ただただやるべき動きを与えられ続ける、というやり方。
「ゆっくり歩きながら舞台を一周してください」「そこで鐘を鳴らす」「壁にもたれて座ってください」「あの人を見て」「止まって」「徐々に近付いて」…
一見すると演者の自由がないような演出法に見えるが、ところがどっこい演者は非常に自由を感じるのだ。

というのも、演出に言われたことだけやっていればいいから、正しいのか?面白いのか?という余計な心配をする必要がない。
だからこそ、目の前で起きていることに対しての集中が増し、感度が上がるのだ。
その時の僕は、言われた通りに動いていただけだが、やりながら自分の中に勝手にストーリーが生まれてきて、心が自由に動いていくのを感じた。
初めて味わった感覚だった。

これと近いものは、恐らく平田オリザさんの演出だろう。
彼の演出はかなり細かく、間を秒指定で与えたり、動きを歩幅指定で与えたりする。
これに対しては「俳優をコマ扱いしている!」という批判もあり、僕も最近までそう思っていたが、このフルマスクでの体験を経てから、完全に逆意見になった。
むしろ演出家が全責任を負ってくれるからこそ、演者はとても自由を感じるのだ、と体感で確信した(事実、青年団の俳優さん達はとても自由を感じているらしい)

「自由を与える」というのは一見して良いことのように思えるが、裏返すと「責任を与える」ということでもある。
好きにやっても良いけど、その結果の責任もあなたが負うことになりますよ、という文脈が含まれている。
与えた側はそう思っていないにしても、与えられた側はそういう状態になってしまう。根本にある「どうすればいいんだろう?」「これでいいんだろうか?」という不安や恐怖を取り除けていないからだ。
だから「自由にやっていいよ、責任は僕が取るから」と言っても、大抵の場合は本当に自由にやれないのだ。

もちろん、指示をし過ぎることで、逆に萎縮したり、恐怖心を与えてしまったりすることもあるから、一概にこのやり方が良いとは言わない。
けど、最終的に演出家ならびに指導者がやることというのは、演者の恐怖心を取り除いてあげることだ。
そのためのアプローチは、決して単純ではないし、まだまだ発見や探究のしがいがあるようだ。

※ちなみにぴかるは、たくさん指示ながらも「良いですねー」「素晴らしい」と逐一演者を鼓舞する言葉を送ってくれていた。これには凄く勇気付けられたし、参考にしたい手法だ。

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