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それでも俺は感謝しているよ

実の母親と、父親が、相次いで亡くなった。

実の両親による幼いころの虐待の末に育ての父母の養子となった。実の両親がなぜ俺という子供を他人にくれてやったのか、実際の事情は俺は何も分からない。俺が知っているのは、ガキの頃の壮絶な虐待、暴力、暴言、そして突然捨てられたこと。

俺が生まれつき持っていた大きな病気のせいで、実の両親には望まない子供だったのかもしれない。いつも泣いてばかりいて、刺激に敏感ですぐ大声で怒って騒ぎ、大人も子供も他人が恐ろしくて人の輪に入れない子供だった。きっと両親は子供らしく無邪気で明るく、やんちゃな男の子を望んでいたんだろうと思う。何をしてもうまくやれず失敗ばかり、嘘をついて人の輪から怯えて逃げかえってくる問題児は、両親を失望させたのだろう。家の中で俺が恐怖を感じ、怯えた声をあげるたびに殴られ蹴られ、死ねと何度も言われ。何度も何度もごめんなさいと言っては許しを得ようと頑張った。俺には逃げ場所はどこにもなかった。父親も母親も、俺に苛立っていた。俺は父と母を怒らせた自分を責めていた。憎しみを持ったことはもしかしたらないと思う。どんなに殴られても、両親のことが好きだった。

虐待という言葉もなかった時代かもしれない。しつけと暴力の区別もついていなかった時代かもしれない。

ある日、母親が不自然に優しく接してくれた時があった。いつものように泣いている俺を抱きしめてくれた。母親の柔らかい肌の感触を覚えている。母親は笑顔だった。母親からいい匂いがした。

母親は言った。「パパとちょっと出かけてくるね」と。俺はびっくりした。「いつ帰ってくるの?」

すると、母親はまた俺を抱きしめ頭を撫でてくれた。俺はまた泣いた。

そこから何があったのか、それともその前に何かが進行していたのか、分からない。それ以来、両親は俺の目の前に姿を現すことはなかった。俺は気が狂ったように毎日泣いて過ごした。どれだけ暴力を振るわれても、食事をさせてもらえなくても、俺は母親と父親がいない世界は恐怖でしかなかった。

生まれつき持っている病気はさらに深刻なものになったが、時代的に俺は「知恵遅れ」というレッテルを貼られるようになった。

育ての両親も問題がある人ではあったけど、俺をきちんと育ててくれた。障害に対して理解があったわけじゃない。弱い子、根性がない子と激しく叱りながらもご飯は食べさせてくれたし、眠っているところを起こされて殴られるなんてこともなかった。

実の母親が死んだことも、父親が死んだことも、育ての母親から聞いた。しかも、それはそれぞれが亡くなってから随分と経ってからのこと。葬式も埋葬も何もかもが終わってからのこと。

育ての母親は、俺がこの年になっても傷つきやすいままだと知っているのかもしれない。もしかしたら違う意図があったのかもしれない。

10代の頃までは、実の母親はたまに俺に服を送ってくれていたこともある。それも次第に無くなり、俺は母から強引に住所を聞き出し、実の母の家を訪ねて行ったりもした。母親が「寂しかったでしょ、ごはん作ったから食べて」と言ってくれるんじゃないかと夢を見て。でもそんなことは一度も起こらなかった。母親が明確に俺を拒絶しているのだと分かってまた傷つき、それでも、つい最近までクリスマスプレゼントを買っては拒否されたり、そのプレゼントを橋から川に投げ捨てたり、40歳を過ぎてもそんな有様だった。そんな様子を育ての母親はよく知っていたんだと思う。

育ての母親のことを、実の母親だと思って思い切り抱きついたこともない。心から甘えたこともない。18歳で俺が東京に引っ越すとき、田舎の駅で俺を見送ってくれた。じゃあねって言って俺が列車に乗り、走り出す時、遠くに母親が手を振っているのを見つけた。俺は泣き、ごめんねと独り言を何度も言った。甘えられなくてごめんと、何度も謝った。

東京の夜の街で俺は「アキラ」となり、女の感情をもてあそぶように仕事をするようになってからも、実の母親から拒絶されているという絶望感は忘れたことがなかった。今も病気の症状で、俺は何度も何度も幻覚を見る。当時もそうだった。捨てられようとしている時のあの優しく不穏な笑顔。ぬくもりと、匂い。母親は当時、まだ20代だったと思う。あの頃の母親との一瞬の光景を何度も幻覚として見てしまう。夜眠ろうとしているときに、天井や消えているテレビの画面に、iPhoneの画面に、あの一瞬の光景が映画にように映し出される。

このことは誰にも話したことがない。付き合った女も遊んだ女も誰も知らない。そのことで俺の存在が不利になるのは分かっていたからだ。精神障害、発達障害、異常性格、そんなレッテルで見られ、そのうちそれを責められることになるだけだ。

妄想のせいで何度か自殺を試みた時も、誰にも話さなかった。

そんな実の両親の死を聞いて、想像通り俺は大きく動揺した。

最後の最後まで、俺はのけ者だった。いまだに墓の場所を知らない。

そこからの数か月、俺は争いの中にいた。母親の相続で俺は法定相続人として分割協議をする立場にあった。財産があるわけじゃない。でも俺は母親の愛情を最後の最後に試したかった。試すというより確認したかった。遺言が残っているわけじゃないので、俺に相応の金銭の分割を欲しと思った。遺留分のほんの数十万円のものだ。実の母親にいた実子達と最後の最後まで俺はごねた。ただの訳アリの面倒な子供くらいに思っていたと思う。俺は母親の愛情を少しだけ分けてほしかっただけだ。

でも最終的に、俺はものすごく悲しくなってしまった。何ももらえないんだと、母親の愛情は最後まで何も残ってなかったんだと、悲しくなった。

そして俺は何ももらえないまま、分割協議書を作成することにした。負けることにした。

俺の夜の師匠が、かつてこう言った。「喧嘩には負けてやれ、試合には死んでも勝て」って。俺は母親の相続では喧嘩にも試合にも勝とうとした。

でも、俺が選んだのは喧嘩にも試合にも負けるという選択。もうその先には何もプラスになるものはない。愛も金もなく、ただの負けを飲み込むという決断をした。

でも、それでよかったと思う。俺は、母親と父親を今はもう許している。許しなんか必要ないかもしれない。でも憎しみは全く持ってない。俺は「許し、負ける」ということの価値を初めて理解できたと思う。

本当は、今でも、「アキラ、ごめんね。苦労かけたね。」って手紙が残っているんじゃないかとか、夢でもいいからまた母親が抱きしめて「ただいま」と言ってくれるんじゃないかと、思っている。

もちろんそんなことはあり得ない。ただそれでも、憎むことは辞めようと思っている。あの頃の母のように、いろんな人がやさしく、突然途絶えるように消えていった。行かないでと泣いたあのガキの頃の俺はもういないけれど、今でも傷つくことには慣れてない。

たとえ傷ついたとしても、憎しみを持つことはしない。人間関係を断つこともしないし、むやみに怒ることもしない。うまくいかないこともあるけど、なんとか笑って過ごすようにしようとしている。愛が否定されても、ぎこちない恋愛が拒否されたとしても。

母親と父親には感謝している。

俺が人を許し、人の幸せのために献身できるようになったのは、両親おかげだ。反面教師じゃない。俺を生んでくれたこと、そのことに感謝している。

でも「パパ」と「ママ」と、俺は最後にでも呼んでみたかったけれど。

最後の最後まで突然いなくなるんだもんな。

存在が当たり前になるほどの愛で溢れた人生には、俺はまだまだ遠いみたいだ。

それでも、愛は与える方がずっと価値があると知っている。受け取ることを拒否されるような愛を持つ子供だったから、与える愛に価値を持とうとしてきたんだ。

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