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話の半分は聞こえていないもの

NHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀 特別編 宮﨑駿と青サギと...「君たちはどう生きるか」への道』を観た。

その内容は俺が語るべきものでもないだろうから省略するが、そこには宮崎駿監督の苦悩が数年にわたって重く捉えられていた。人生の黄昏時にそこまで戦う理由はなんなのかと思わせるような日々だった。

宮崎駿監督の一言一言が重い。そして言葉が正確で、なおかつ揺れ動いていく。

すげえもんだなと凡人の俺はコーヒーを飲みながらオフィスのテレビを見つめていた。

Xを覗いてみると、そこにたまたまこの番組のことに言及する人がいた。そこにはこんな意味のことが書かれてあった。

「素人が作った番組なのか?宮崎駿が何を言ってるのか聞き取れないし、字幕もない。ド素人のカット割りだ」

それをポストしている人が、老人なのか若者なのか中年なのかは知る由もないが、ため息が出た。

今どき多いタイプの人ね、と。

最近のテレビもYouTubeも、字幕だらけだ。誰かが話すと字幕がつく。そして「伝わるように」と多くの人が気を配っている。テレビや動画だけではない。仕事でのプレゼン資料も、商談のトークも、もしかしたら女性とのデートでも、分かりやすさ、伝わりやすさを追求するのが当たり前だと思われている。
挙句の果てには個人のブログですら、Googleのアルゴリズムに最適化されるように書くようになった。SEOブログというクソくだらねえ言葉まで生まれた。

その結果どうなったのか。

字幕がないと何も理解できない人、伝わりやすい声で言わないと何も理解できない人、伝わらないと意味がないと平気な顔で言う人が現れたのだ。

でもどうだろうか。世の中のことが全部、何者でもない自分に対して分かりやすく加工されているだろうか。そう思うとしたら、GoogleやXのアルゴリズムで最適化された情報しか受け取れていないということかもしれない。

ここ数年は特に、ネット上でさえ重大な事実を発見することがなくなった。とんでもなく不謹慎だが刺さるなあと思うようなブログが探せなくなった。

分かりやすさという呪文で姿を隠されてしまったのだろう。

俺だけなのかもしれないが、若い時からすごいなと思う大御所たちは、誰一人として「伝わる言い方」も「伝わる工夫」もしていなかった。
ぼそぼそと何かを言うが、その半分も俺は理解できない。聞き取れていない。まるでノイズがひどい短波ラジオに耳を澄ますようなものだった。

「え、今なんて言ったんですか」とか「〇〇とは?」などと質問する空気ではない。アングラの世界でのことだ。もしそんな舐めた口をきいたらぶん殴られるだけのこと。良くても罵倒されるだけ。
だから聞こえていない半分のことは想像するしかない。
想像だから正解が何か分からない。分からないところは自分で補う。そして大御所たちは一切褒めないので、自分で正解に向かっているのかさえ分からない。

だから今も、いつまでも、学び続けるしかない。
大御所たちが引退したり、死んでしまったりした後で、聞こえなかった言葉が何だったのか想像しながら。

何者でもない自分に大人たちが懇切丁寧に分かりやすく伝えてくれるなど、甘ったれもいいところだろう。
そう思いながらも、俺は自分の後輩やお弟子には分かりやすく伝えるように努力してきた。

クソくだらねえ死ねやと思いながらも。
俺にはお前らに懇切丁寧に教える義務はねえんだわ腐れまんこがと思いながら。

だからやっぱり、俺を大きく超えるような成果を出す人間が一人もいない。反抗的なぶっとんだ奴もいない。常識ハズレもいない。若いのにすげえな、根性決まってんなと思う人間もいない。こいつは若いうちに成功して見えないような高さまで飛んでいくだろうなと思わせる人間など、ひとりもいない。

みんな、誰かが用意した字幕スーパーの範囲でしか脳みそが働いていない。
分かりやすく伝わるようなことしか理解できないのだから当然だろう。

「オマエな・・・〇〇が・・・で、〇〇〇しとかねえと、な、〇〇でよ」

20歳のとき、アングラ商売の社長が俺にそう言った。話の99%が聞こえなかったが、どうやらいいことを言っているのだと勝手に思った。俺のことを何か認めてくれたうえで、ありがたい忠告をしてくれたと判断したが、肝心の内容が分からない。
当然ながら聞き返せるほど甘ったれた場所じゃない。
でも、あの聞こえなかった俺への忠告(?)が励ましになってきた。
もしかしたら・・・
「便所紙を補充しとかねえと次の人が困るでよ」だったのかもしれない。それでもいいのだ。聞こえなかったことを俺が勝手に想像して何十年も頑張って来たのだから。

社長のことはリスペクトしていたが、隙あらば刺してしまおうと思っていた。こいつを始末しないと俺は上に上がれないと。(しかし勝手に死んでしまった)

分かりやすさにはもうこだわるべきじゃないと思っている。
今の時代だからこそ。

GoogleやSNSのアルゴリズムに最適化もさせないし、他人に簡単に伝わる言葉を話すこともしないつもりだ。説明もしない、注釈もつけない。パワーポイントで説明なんかもしない。表も写真も目次もつけない。お節介なリンクも貼らない。

それが必要ならもっと違う場所に行ってくれと思う。

半分以上のことは教えない。
分かりやすく伝えたところで、半分以上のことは話せないのだから一緒だろう。だったらむしろ何も言わない方がいいのだ。

仕事は盗んで覚えろと、今どきなら軽蔑されるようなことを言うようにしている。
三周してきて、それが才能に恵まれた美しい奴らを伸ばすために必要な距離感だろうと気づいたから。

モノを教えずに後輩が失敗したら上司の責任だと、威張って言う人たちもいる。モノを教えてもどうせ失敗するのだから責任は同じだろう。上司は後輩の成長に対して責任を持つべきなのだ。教えたからといって責任がないわけじゃない。育てられなかったことに責任を取るのだよ。

育つために必要なら、分かりやすく伝えない、ということ。
話の半分以上を理解できるようにお膳立てするなど、間違えている。


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