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教育についてあ〜だこ〜だ(7)ゆり【リレーエッセイ】

「それぞれ教育やワークショップの現場をつくってきた、岩橋由莉・五味ウララ・向坂くじらの三人が、あらためて教育について「あ〜だこ〜だ」言いあうリレーエッセイ。今回の担当は岩橋由莉。教育と専門性について、語り合うことについて、思いをぶつけます。【隔週金曜更新】

ゆりさん

↓前回

「教育」
簡単に言える言葉だし、あまりにもよく使われている言葉ですが、それだけにその意味や定義、それぞれの経験値があまりにも多様だなと感じています。この言葉を使うところから準備が必要ですね。

けれども表現教育家と名乗っているせいか、わたしはここの「教育」という言葉のハードルを超えたいといつも思っているのです。

少なくとも私は自分がやっていることに「教育」という言葉を使うことに、かなり抵抗があります。それは何故なのかといえば、自分がそのことについて教えられるほどの豊富な知識と確かな技術と責任を持ち合わせていない、と思っているからです。

これはうららの前回のエッセイの文章ですが、うららが言うように、「教育」というと専門性がある人しか使ってはいけない言葉なのではないか、そんな想いが多くの人にあるように思います。

でも、わたしはこんなふうに考えてます。

教育? 学校教育ならいざ知らず、いやそれであったとしても、「人が人を教えたり教わったりする・育つ。育む」現場は、専門家だけのものなの?他の人はそのことに携わってはいけない? 

私はそうではないと思っています。むしろそこにこそ憤りを感じます。

教える知識や技術よりも、その前に、生徒の前に立った時に、「ほんとのところわたしは今何ができるの? 言えるの? 何を大切と思っているの?」と自分自身に問えているのか、と問いかけたいのです。その場合専門的な知識はむしろ邪魔な時さえある。

大学の授業で「先生」を志す生徒に、授業の一コマの中で「教育をあなたなりに定義してみてください」と問う時間を持ちます。「オープンクエスチョンなので、正しい答えは私も持ち合わせていません」そんなふうに進めていくと、「教育は知っている人が知らない人に教えること」「社会常識を身につける」「人として成長するサポート」など自分が知る限りの一般的であろうと思う言葉が並びます。「教育」をその意味で使うことにあまり疑問を感じてこなかったようです。

なので、そこから単純な疑問を投げかけます。それだけでほんとうに人は育つの? そんなに子どもは知らないの? 我々は知っているの? これからの世の中で何を知っていけばいいと思うの? そうすると、自動的に出ていた言葉がどんどん出なくなり、黙ってしまいます。でもしばらくしてから「まちがってるかもしれませんが……」「これは私の意見ですが……」と自分の話を話し始める。そこから互いに問い合いながら対話を繰り返していくと、自分が昔思っていたことや教育がこんなであったらというような自分なりの言葉や願いがおずおずと出始めてきます。なんどか互いの話を聴きあい修正を繰り返しながらアップデートしていく。そんなことをやっています。授業は半年間なので、半年の付き合いの中では衝突は起こりません。衝突まで起きるようになったらおもしろいのになあ、といつも思いますが、彼らはすごく注意深くそこを避けていきます。

知ってると思うけど、わたしは衝突する場面にくると俄然燃えてくる傾向があります。自分とは違う意見に遭遇した時、いい大人はみんな(そう、それがあなたの考え方なんですね、私は違いますけど。)と言葉を飲み込むことがほとんどだと思う。
でもある時、ふっと飲み込めない時がある。大事に思ってることだからこそ「それは違う!」と声を荒げて相手にわかってもらいたい時がある。

そんな互いのゆずれない想いが出て、反発し合う時こそすごく大事な時間だと思います。
そんな時にはとにかく相手の言い分を聞く。
なんでそんな言葉が出てくるのか、相手に想いをはせてみます。
それでも意味がわからない時には、その人の言葉の意味と出している音に気を付けてみる。意味が通ってればいいと思うかもしれないけど、その時に出している音もわたしには気になってしまうのです。それが一致してないなあと感じた時、今目の前にいる人に言いたいのか、それとも過去の誰かに向かって言ってるのか、とかも考えてしまいます。音にはそんな信号も潜んでいる。互いにわからない時には一度出し切ってもらって、みんなで整理してみる。


今一番場にとって、その人にとって、相手にとって、聴いているみんなにとって大切なことをそこから手繰り寄せていこうとします。

もちろんうまくいかないこともたくさんあります。一度では無理なことも。それでもその言葉が出てきたチャンスを逃さないために時間内にできることを精一杯やる。

それをする時のわたしはなるべく技術に逃げずに、自分を安全なところに置かずに、その場に居ようと心がけます。
それが私の中の「教育」という場なのだなと思います。


でさ、話は変わるけど、単純に二人は表現が阻害された経験とか、権力を振りかざした教師像とかに対してアンチとかカウンターとかいうところが出ているのだけど、それが嫌なことだ、おかしなことだ、となんで怒れるのかと思うのです。そこを怒れるというのは、反対の経験もしてきたということだよね。それは二人のことをすでに愛しんでくれた他者がいたという経験をしているということだよね。それがあるからこそ、自分に対しておかしなことをしてきた人をおかしいと思えるのだよね。その当時は疑問に思わなくても、あとから人が人を人として応対した現場を直接的にも間接的にも経験することで、あのときのあれは完全に理不尽だったな、と気づくんだよね。

私に対しても理不尽なことをしてきた人はいる。その受けた傷はたしかに今でも生々しく残っている。でもそれと同じくらい家族でもない他者がこんなにもよくしてくれた、という経験もそれ以上に忘れられないのです。

二人にはそれは必ずあるはず。なぜそんなことが言えるかと言うと、二人の言動を見ていると、誰に、なのかはわからないけどこの人は人に大切にされてきたんだなと思うからなのです。ここの部分も「教育」を考える上で重要だなと思っています。ネガティブな扱いを教育の中で受けたのと同じくらい重要視したいなと思っています。

一番最初のエッセイで私が気づく前から私を見つめていてくれた人たちや何か超えたものの存在に触れていたことは少なくとも私の教育観にものすごく影響を及ぼしているだろうなと思うのですよ。

理不尽な思いをたくさんしてきたくじらちゃんを、救ってくれた人はどんな人なのだろう? うららをうららとして認めてくれた人は誰なんだろう? 何をしてくれたんだろう? そんな話も聞いてみたいです

能楽師の安田登さんが「あわいの力」という本の中でこんなことを言ってます。

身体感覚という時、どうしても僕らは内部で起こっているように感じてしまいますが、実は環境や他者という外部とのあいだ・境界こそが身体であるとも言える。つまり身体的な「媒介」「あわひ」を通して、人は外の世界とつながっている。

ここの部分はすごくそうだなあと思うのです。もう少し私なりに言葉を足すとこの「あわひ」は光と影があるような気がしています。光もあるから影も濃くなるし、影があるから光が見える。

ワークショップや人の集まる場を作る時にそのあわひの光と影が見える現場が「教育」であればいいなと思っています。

(岩橋由莉)


【次回更新予定→1/22(担当:くじら)】

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