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教育についてあ〜だこ〜だ(6)ウララ【リレーエッセイ】

それぞれ教育やワークショップの現場をつくってきた、岩橋由莉・五味ウララ・向坂くじらの三人が、あらためて教育について「あ〜だこ〜だ」言いあうリレーエッセイ。今回は五味ウララがバトンを受け取り、「教育」という言葉と自分との関係を語ります。【隔週金曜更新】

あ〜だこ〜だ.001 2

前回↓

前回のくじらちゃんのエッセイ、最終的には本人が認めていましたが、徹頭徹尾怒っていておもしろかったですね。
くじらちゃんというひとは、長所:素直、短所:素直(本人談)で、とてもチャーミングなひとです。ふだんは、ほにょにょしている感じなのですが、こと自分がこだわっているワードが出てくると急に懐かない飼い猫みたいになってシャーッと跳び退いて、不意に猫パンチを繰り出してきたりするイメージがあったりします。そこもまたチャームポイントですが。
そして、そのこだわりのワードのひとつが「教育」であるような気がします。

ゆりさんは「表現教育家」と名乗って活動されているし、くじらちゃんも教育ぎらいと言いつつも、家庭教師や塾講師などを経て、書くワークショップをひらいたりしているので、おふたりとも長年、教育について色々と考えてこられてきたことと思います。

ですが、正直にいうと、私が教育という言葉の語義について考えはじめたのは、ごく最近なのです。それこそ今年の5月頃コロナ禍で仕事も全くなくなってしまい、オンラインでゆりさんとくじらちゃんと「あ〜だこ〜だいう会」をしはじめた頃からです。ゆりさんの提案で「自分のやりたい教育についてのワーク」を各々が考えてきて実施してみることになったから、と言っても過言ではありません。
ゆりさんとくじらちゃんが教育について考えてきた年数と比べるのなら、大学生と赤ちゃんみたいなレベルの差。ようやくヨチヨチ歩き出したぐらいです。

これが例えば、教育じゃなくて仕事とかお菓子とかだったら、それなりに人生の中で育んできた思いがことばとなって出てきそうですが、ゆりさんの、二人にとって「教育」という言葉をどう捉えていますか? の問いについては、如何せんまだ赤ちゃんの私にはうまく表現できそうなことばが見当たりません。でも、くじらちゃんが書いていた

「わたしにとって教育とは、何回も、懲りずに、醤油をとってもらおうとする、もしくはとってあげようとすることです。そうしたいという思いがあり、そして、自分はかつて学校の教師にそうしてもらいたかったのに、してもらえなかったという実感があります。問いの意味や答えの意味がすこしずつずれていくとき、見逃さずにていねいに掬ってほしかった。」
「へんくつでノリの悪いわたしが、だれかに、それはもしかしたらわたしよりもずっとへんくつなだれかに、懲りずになにかを伝えようとする。わたしにとっては、そういうことができそうなのが教育であって、そこが好きです。ついでにいうと、そういうことができそうだと思うのは教育のほかにもう一つだけあって、それが表現であったりします。」

この部分は、すごく分かりやすいし、いいなと思います。醤油というものはお互い知っていて、醤油を取るという目的も明確で、じゃあどの醤油? どうやって取る? 置く、それとも掛けちゃう? 卵混ぜてから醤油かける派、それとも黄身をちょっと割ってそこにかける派??? とかそういう相手とやりとりしながら要望にこたえていく。(ぜんぜん違ったりして)

あっ! そうか。そういうことか!

ゆりさんとくじらちゃんのエッセイのなかに大きなヒントがあって、いま急に腑に落ちたことがありました。

くじらちゃんのやけくそ気味? な巻き添えバトン回しの最後にこう書いてあります。

「教育」全般に対して自分が抱いているような暗い気持ちの気配を感じ取っているのですが、誤解でしょうか? カウンターとして教育の場をつくっている、というような。ほんとうはみんなどこかで怒っていたり、うらんでいたり、怖いと思っていたりするんじゃないんですか?

はい、誤解じゃないと思います。 少なくとも私は自分がやっていることに「教育」という言葉を使うことに、かなり抵抗があります。それは何故なのかといえば、自分がそのことについて教えられるほどの豊富な知識と確かな技術と責任を持ち合わせていない、と思っているからです。教えるということは任務みたいなものであり、教わるひとがちゃんと一人前になれるよう面倒をみなきゃいけないものだと私は考えているので、自分がやっていることは教育ではないと思っています。これは別に自分を卑下しているとかではなく、そのつもりがあるorないということです。だから、犬を飼ってその子にしつけ(教育)をする、とかはできるけど、私は誰かを教育したいとは思っていない。

教育が「教えること」だとしたら、私は「伝えること」はしていきたいと思っています。なので、くじらちゃんのいう

わたしから見ると、うららさんが自分の開く場で権威的にならないようにするための気遣いはほとんど潔癖にみえるし、

というのもその通りかもしれません。教師=権威的という擦り込みがあるので、そこはすごく注意深くなっていると思います。

つまりこれで分かったことは、私は教育がイヤなんじゃなくて「教師」がイヤだということです。私は教師という言葉にあまり良いイメージがありません。色んな先生を思い出す。。。学生時代は何とも思わなかったけれど、大人になって冷静に思い返してみると、かわいがりにも似た体罰が日常茶飯事な中学でした。あの当時は教師も生徒もみんな笑いながら体罰を受けていたのが恐ろしい。暴力は愛情でもコミュニケーションでもなんでもない!! 尻バット(野球部の顧問かつ国語の教師が木製の板で生徒のお尻をフルスイングで叩く。お笑いでもそういう罰ゲームありますよね。あれです。)がイヤでテスト勉強するとかナンセンスすぎる。
はっ、失礼。私まで怒りがこみ上げてきてしまいました。

教育において、教師も重要な要素ですよね。きっと、ワークショップでのゆりさんの佇まいから察するに、ゆりさんも思うところがあるのではないでしょうか?

今回はこのへんで、そろそろゆりさんにバトンを回したいと思います。

(ウララ)

【次回更新予定→1/8(担当:ゆり)】

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