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【連載】ワークショップで行う詩の推敲を公開します!(向坂くじら・岩橋由莉)③

この連載では、わたし・向坂くじらが詩のワークショップ内で参加者の方と行う推敲を、表現教育家の岩橋由莉(ゆりさん)といっしょに実践し、そのようすを記録します。詩のワークショップでどのようなことをしているのか興味がある方、詩ができあがっていく工程を見てみたい方、ぜひお楽しみください!
お題:「あるできごとや気持ちが夢に出てきたとしたら、どんな夢になるでしょうか?」

第一回はこちら→

前回はなんとなく終わりに向かいつつある感じでした。そうなると戻ってくる修正もどんどん細々してきますが、根気よく見比べていきます。今回は四稿目からスタートです。

(ゆり)

公園は四角い緑
やがては同じ長さに揃えられる運命

砂場には 赤いお椀や黄色いスコップ 
たけのこが お皿に載っているのが 笑える

気がつくと
大勢の人が
お椀やスコップを手に
うすぼんやり
わらっている

わらっている顔 わらっている顔 わらっている顔
笑い声だけが 飛び出して
砂ぼこりのようにくるくる舞っている

お皿のたけのこを生のままかじってる男
掘りたてだから大丈夫 と言う
ばかだなあ、渋いに決まってるのに
はたして
ペッペッとすぐ吐いた
えぐみがあるよ 
と甘えるように上目遣いでわたしを見る
わたしは
そうなんや とも
お水飲む? とも
言わなかった
お腹がつめたくなっている

砂場に 立ってみた
お椀とスコップを踏まないように
遠くがよく見えるように 

男がいつのまにか距離をとって こちらをチラチラ伺っている
私が何か言おうとしてるのに 気圧されたみたいだ
いつのまに 脱げたのだろうか
はだしの底から 砂の冷たさがじんじんと伝わってくる
歩こう ここから出なければいけない
ここは 立って踏ん張る場所じゃない

拳を握る
行く方に まっすぐ 大きく息を吸い込んだ

「すぐ行くよ!まってて!!」

すぐ近くにいる人には きこえた気配はなく
遠くの人には 届いたようだ

声を あげたら 少し 気が澄む

★途中、意図だらけの自分の言葉に嫌気がして、何を書きたいのかもはやわからなくなり見失いました。
が、やっと戻ってきた感じです。
これで完成したような気がしてるのですが、どうでしょう?

書いている本人が完成だと言い出しました。ここからが粘りどころです。
どうなったら完成、というのが明確に決まっていないのが詩作のおもしろいところであり、かつもう本当にうんざりするところです。わたしも日々もう本当にうんざりし、そしておもしろがっています。詩作にかぎらず、ひとりで作る作品は全部そうなのかもしれません。
わたしの場合、自分の制作でも、ワークショップの推敲でも、一回目に「完成」と思ったところはかならず疑うことにしています。ゆりさんもコメントをしてくださっている通り、なんだかよくわからなくなってくると完成という気分になってくるからです。まあ、一回目の完成後変えに変えて、肩で息をしながら元の原稿を見たらそれが結局一番良い……ということもしばしばあるのでなんともいえませんが。
「意図だらけの自分の言葉に嫌気がして」とコメントをつけてくださったのもおもしろいです。意図自体は悪いものではないはずなのですが、その感覚はとてもよくわかります。
さて、全体としては確かに完成に近づいてきている……のですが、わたしにはどうしても見過ごせない部分がありました。

(くじら)

ありがとうございます!!遅くなりすみません! 意図だらけの自分の言葉に嫌気がさすこと、ありますよね。
わたしが今回のバージョンでびっくりしたのは、たけのこ、笑えたのか! ということでした。これまでなんとなく不吉なイメージを持っていましたが、それがガラッと変わりますね。

もう佳境ですね。もう一回だけと思ってお付き合いいただきたいです。要素が多くて、かつひとつひとつに愛着が湧いて、どこが本題だかわからなくなってきていると思うのですが、思い切って、もう一度いらないところを削ってみて欲しいです! 伝わるように、伝わるように、と推敲するうち、どんどん親切になって、書きたいことと、書かなければいけないこととの境目があやふやになってきています。矛盾するようですが、なにかが伝わってほしいと望む一方で、なにもかも読者に説明して、わかってもらわないといけないわけではないのです。
それにあたって、もう一度この詩を読み返して、この詩の主題はなんだろう、と考えてみてほしいです。
わたしの感想としては、推敲を重ねるうちに、だんだんこの詩が、ゆりさんと、ゆりさんを取り巻く人たちとの関係の詩に見えてきました。実際にそうかはわからないんですが、そのように読めます。「すぐ近くにいる人には きこえた気配はなく/遠くの人には 届いたようだ」ここが顕著です。ここ、詩的イメージとしてもおもしろく、示唆的です。ここが肝だと思います。
もっとシンプルにここへやってくる方法があると思います。次で完成する気がします!!楽しみにしています!

最後に、ひとつだけ……。これは個人的な好みになるのですが、最後の「気が澄む」は「気が済む」の当て字でしょうか。わたしはあまりこういう、「がんばる→顔晴る」「滑舌→活舌」「人材→人財」的な、「もともとあった日本語の意味や用法のまま使っているのに、漢字だけをきれいな意味のものに変える」というのが、ちょっと好きではありません。ふだんから文句を言うわけではないのですが、少なくとも自分の詩では絶対に使いません。なぜかというと、単語自体が持っている集合的なイメージは、漢字を変えたくらいでは全然拭われないと思うからです。かつ、「あるものの悪いイメージを隠して、いいイメージだけは伝えよう」というのは、それ自体が欺瞞的で、なにかをごまかそうとするときにすることですよね。「顔晴る」という当て字が、がんばるつらさをごまかしたい人、そしてそれはときにがんばる側ではなく、がんばらせる側によって使われるように……。読み手の信用を損なう言葉の使い方のひとつだと思っています。今回のゆりさんの使い方がそんな意図だったとは思わないのですが、そういう意図ととられてしまうと、本当にもったいないです。
とはいえ、「いやいや、ちがうよ! 『気が済む』がベースにあるわけではなくて、単に『気』が、そのまま、『澄む』ということを書きたいんだよ!」と思われるかもしれないですね、その場合は、わたしだったら、当て字の誤解を受けないような書き方にするかと思います。『気』が『澄む』という意味内容自体はとても美しく、身体的である分、もったいないです。「気」ではない言葉であらわすとしたらなにが澄むのか、どのように澄むのか、というところを再検討していただけないでしょうか。
個人的な拘りで、ささいなところにすごく熱くなってしまいました……。すみません。最後の一言はかように大切なのだというところでお許しください!!

はい。前回の原稿では「気がすむ」だった箇所が「気が澄む」に変更されていたため、わたしの方が一気にヒートアップしてしまいました。他人の詩を一緒に推敲させてもらうとき、本来自分のこだわりはそんなに関係ないと思っているのですが、しかし、譲れない部分というのもあります。「この作品をどうするか」ということ以前にある「言葉をどのように扱うか」というところについてだと、どうしても自分の考えるところを話さないといけない、と思ってしまうことがあります……。これはどちらかというと未熟さにあたるかもしれません。(ワークショップのサンプルとしてnoteに公開するとわかっているのに、どうして……)
こうなってしまうと、わたしとしても価値観を賭けた真剣勝負というか、返信を送った後にものすごくドキドキしました。はたして、ゆりさんはこれをどのように受け止めてくれるのか……。

次回、最終回です!

[最終回へつづく]

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