【連載】ワークショップで行う詩の推敲を公開します!(向坂くじら・岩橋由莉)②

この連載では、わたし・向坂くじらが詩のワークショップ内で参加者の方と行う推敲を、表現教育家の岩橋由莉(ゆりさん)といっしょに実践し、そのようすを記録します。詩のワークショップでどのようなことをしているのか興味がある方、詩ができあがっていく工程を見てみたい方、ぜひお楽しみください!
お題:「あるできごとや気持ちが夢に出てきたとしたら、どんな夢になるでしょうか?」

第一回はこちら→

前回は、ゆりさんがお題を受けて書いた第一稿にわたしからいくつか注文をしました。それに対して、ゆりさんから推敲した原稿が返ってきました。

(ゆり)

公園は作られた四角い緑
砂場に赤いお椀や黄色いスコップが落ちている
そこにスライスされたたけのこがお皿に載っている
それを横目に わたしは 歩く
行くべきところがある
ただそれだけを 思って

なのに
こんなの 私だけがたどり着ける場所 でもなかった


気がつくと
皆は 四角く作られた中で 
赤いお椀を持っている
黄色いスコップを持っている

笑っている
笑っている
たくさんの声だけが飛び出て 砂ぼこりのようにくるくる舞う

その声の行き先は 見えている


お皿のたけのこを生のままかじってる男
掘りたてだから大丈夫だと言う
ばかだなあ、渋いに決まってるのに
はたして
「ペッペッ」とすぐ吐いた
えぐみがあるよ 
と甘えるように上目遣いでわたしを見る
わたしは そうなの とも 
お水飲む? とも言わなかった


四角い緑の砂場に立っている
遠くがよく見えるように立っている

いつのまに靴が脱げたのだろうか
冷たさがはだしの底からじんじんと伝わってくる

たけのこ男が遠くでこちらを見ている
けどわたしはもう見ないことに決めた

足からの冷えはもうお腹まできている
歩こう
せめて歩かなければ

ああ、いつのまにかそうやって歩いていたんだった。

拳を握った
大きく息を吸い込んだ

全体にシャープになってきた印象です。でも……。

ふたたび、お返事をします。最初のお返事を出すのに比べて、二回目、三回目はより慎重になります。前回も書いたとおり、最初は純粋な読者として、ある種のんきに詩に注文をつけていく感じでお返事をします。まず、「だれかに読まれる」ということに対してタフな詩との付き合い方をしてもらいたい、と思っているからです。

ですが、それだけをくりかえしてしまうと、どんな詩であろうとわたしの好みの詩に均一化していくおそれが出てきます。それはわたしの望むところではありません。そのため、このあたりから、「この詩はけっきょく、なんなのか」というようなところに読みの焦点をあてるつもりで読み、お返事をします。わたしの好みは少しずつ外して、詩の内実のほうへどうにか近づいていこうと試みます。

そういう読み方をするのが二回目以降になるのにはもうひとつ、技術的な理由があります。推敲前と推敲後をフィルムを重ね合わせるように見比べることで、はじめて見えてくるぶぶんというのがあるのです。一回の推敲で消えてしまうものは、少なくともそのときの書き手本人にとってはたいしたことではない。逆に、一回め読者としてわたしが読んだときにはそんなに目にとまらなかった箇所も、二回め、三回めの推敲をくぐりぬけてくるのなら「そう」なのだろう、というわけです。

(くじら)

ゆりさん、読みました!! 遅くなってすみません。
最初のバージョンと比べて、ご自身の中でいるものといらないものとを判別してくださったのかな、という感じがします。独白のパートも他のところと浮いていたのが軽減されてきました。

要素が減ってきたことで、文体が気になってきました。いま、「〜している」で終わる文が全体にかなりあります。そうするとなんとなく、ずっと景色を外側から書いている感じ、カメラワークとしては停滞している感じを受けます。
ずっと公園にいるのですが、そのなかでたけのこ男との出会いが起き、自分の決意表明のようなところに行き着くまでには、ストーリーのようなものがあって、詩の中で進行しています。そこが、「〜ている」という文がところどころで出てくることによって、スムーズに読みづらくなっている気がします。文末をいろいろ調整してみてください。詩なのでどこで改行してもいいですし、体言止めとかもありなので……

それから、悪態が消えたので(個人的には残念……)結末が変わっていますね。ここで作中の「わたし」がどういう結論に至るのか、あるいは至らないのか、ということを考えることによって、この詩がどこに向かっていこうとしているのかがわかりやすくなると思います。ここがまだ曖昧な感じがするので、ちょっと考えてみてください!心の声じゃなくても、最後になにをするのか、何を見るのか、なんていうことでもいいかもしれません。

さっきあんなふうに書いた舌の根も乾かぬうち、一回めの推敲で消えた部分を名残惜しそうにしていますが……いやいや、これもこれで言い分があります。どこがその詩のおいしいところなのか、というのは、かならずしも書いた本人にいちばんわかるわけではないと思っています。少なくとも、書いた直後の書いた本人には、わかっていないことのほうが多いと思うくらいです。わたしも、自分の作品は寝かせないことには人前に出さないようにしています。

「言いたいこと、伝えたいこと」と、「おいしいところ」というのがときに全然違うところに発生する、というのも、人の書くプロセスをながめているとおもしろいところです。

今回は、一気にもう一往復お見せしようと思います。

(ゆり)

公園は作られた四角い緑
砂場に 赤いお椀や黄色いスコップが 落ちている
スライスされた たけのこが お皿に載っている
それを横目に わたしは 歩く
行くべきところが ある
ただそれだけを 思って

なのに
こんなの 私だけがたどり着ける場所 でもなかった


気がつくと
皆は 四角い緑の中で 
赤いお椀と黄色いスコップを持っている

みんな笑っている
笑っている
その声だけが 飛び出て 周辺で砂ぼこりのようにくるくる舞っている

その声の行きたい場所は こちらからは よく見える


お皿のたけのこを生のままかじってる男
掘りたてだから大丈夫だと言う
ばかだなあ、渋いに決まってるのに
はたして
ペッペッとすぐ吐いた
えぐみがあるよ 
と甘えるように上目遣いでわたしを見る
わたしは 
そうなんや とも 
お水飲む? とも 言わなかった


四角い 緑の砂場に 立つ
遠くがよく見えるように

いつのまに 脱げたのだろうか
はだしの底から冷たさがじんじんと伝わってくる

たけのこ男が 遠くでこちらを見ている

冷えは もうお腹まであがってきている
歩こう
せめて歩かなければ

そうだった
いつのまにか そうやって歩いてきたんだった ここまで

空を見て拳を握る
大きく息を吸い込んで悪態をつこう

「こちとら裸足だ!何が悪い!なにがわるい!」

四角い人たちには届く気配もないけれど
声を あげたら 少し 気がすむ

やった〜! 名残惜しそうにした甲斐あり、悪態が戻ってきました!

このあたりでようやく、なんとなくこの詩と同じ方向を向く手立てが見えはじめたような気がしてきます。とはいっても内容自体は基本的にはわたしが決めることではないので、基本注文をつけるのは文体や言葉の表現に対してだけにしています。しかしそれでも、わたしもまたこの詩の向かおうとするところをじっとみている、ということがどうしても必要になります。もちろん正確にわかるわけではないのですが(それは自分の詩を書いている時でもわかりません)、しかしそれ抜きで言葉の用法や、レトリックや、語彙の選択について考えても、空虚なわかりやすさのほうへ向かっていくだけになってしまいます。

ということで、内容ではなく表現方法について言いつつ、その意図をしつこいくらいに説明する、ということになります。わたしがどんどん長文で返すようになるので、ある参加者の方から「あんたも粘り強いね〜〜」と呆れられたこともありますが、自分ではいちおうこれが最短だと思ってやっています。

(くじら)

読みました! 悪態が戻ってきて喜んでおります!
はじめに比べると、少しずつまとまってきている感じがします。細かな修正(「そこにスライスされた」→「スライスされた」、「そうなの?」→「そうなんや」)にも意図の確かさを感じます。

すみません、前回見落としていたのですが、若干場所の設定というか、カメラの設定で混乱する箇所があります。最初、砂場を「横目に/歩」いていた主人公ですが、そのあと砂場にいる? 「男」に話しかけられ、そのあと「砂場に立つ」タイミングでは男が「遠く」にいるので、???となります。
詩でどのくらい辻褄をあわせるか……というのは諸説あり、たとえば「心象なので男が急に遠く見えてもいいのだ! むしろそっちのほうがリアルな表現だ!」ということも全然できます。わたしの目下の見方としては、意図をもってやるならいいにしても、ただ煩雑でモチャモチャとした印象になるのは避けようかな……という感じです。ここはたぶん書き手のゆりさんの意識の行き届いていないところではないかと思うので……辻褄をあわせてください、というよりは、ちょっと意識的に演出をかけてみてください! 演劇のワークショップではないですが、立ち位置や距離は詩でもとっても大きな意味をなすと思うので!!
わたしは、文字の言葉の表現では、全部のことは「わざわざ書かれていること」であると思っています。なので、細かなところからもいっぱい情報を拾えてしまいます。血をめぐらせるように、意図をめぐらせてください! すべてを意図の下に置く、というとむしろ逆で、すべてに神経をはらった先に、意図しないものが見えてくることがあるので!

これもいまさらなんですが、なんとなくこの詩の大事なところとそうでないところがわたしにも見えてきて、ちょっと一連目がいらなく見えてきました。そのあとに再び語られる情報が多いわりに、スタートとしてもそんなに鮮やかでない気がします。三(気がつくと〜)、四連目(みんな笑っている〜)、八連目(四角い〜)あたりと見比べているといい感じになる気がします。
「どう終わるか」が見えてきたので、「どうはじまるか」をていねいにしていきたい、というところですね。かつ、「どう終わるか」もまだ動かせると思います。
いま気づきましたが、これ、締め切りがないといつまでもやってしまいそうですね。

締め切りがないことに気がつきました。この記事を書いている時点でまだ詩は未完ですが、どうなるのでしょうか。続きます。

[次回へつづく]

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