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「寺で出来る演劇『クォンタム・アリアの碧い首』」作演出・小野寺邦彦(架空畳)の後書き

新宿で、年末で、夜だった。
感染者数が少し落ち着いた頃合いを見計らって、極めて少人数でささやかな忘年会をした。
その席上で、数日前に誕生日を迎えた私に、日野さんはプレゼントをくれた。妙にリアルで怖い小鳥のオモチャで、ネジを巻くと、ピヨピヨピヨピヨーンと不安な声で泣くのだった。日野さんにとって、私は「これ」をプレゼントとして渡すことが相応しい人間なのであり、それはユニークな評価だ、と思った。少なくとも相手にまず好かれることが目的であったのなら、このようなプレゼントはしない。それを私に渡すことが「正しいから」そうしたのだ。その「正しさ」は多分、ズレている。一般的な「正しさ」ではない。自分がそうしたい、そうすべきだ、と思ったことを遠慮会釈なく実行する、そういった種類の「正しさ」だ。そのズレが面白いヒトだと思った。ズレにおそらくは無自覚なところも。
ちなみにその場に同席した、私の劇団である架空畳のメンバー柴山は、ネコのマトリョーシカをくれた。木製の、巨大な手作りマトリョーシカだ。筆で描かれたネコの表情はキャッチ―な可愛らしさとは無縁で、ただ「赴き」だけを強烈に湛えていた。それもまた私への柴山なりの「正しい」評価だというわけだ。その夜、私は、妙にリアルで怖い小鳥のオブジェと、趣深い巨大なネコのマトリョーシカを抱えて、新宿の店を明け方までハシゴした。その両方とも、いま、私の書斎で異様な存在感を放ちつつ、不思議に馴染んでもいる。日野さんから、正式に今公演の劇作と演出の依頼を受けたのは、その夜の翌日のことだった。

寺の境内にあるオープンスペースという、半公共的な場を舞台とすること。時間と空間のはざまにある領域をテーマに据えること。仏教的なテイストを作中に入れること(これは場所からのオファー)。そして、劇作の文体を変えること。日常のリアリティをもった会話劇…。かなりの難題だ、と思った。そして、なぜそれを私に依頼するのだろうか?とも。少なくとも、普段私が劇団で書いている芝居のテイストとはまるで異なる仕事だ。だがフと思ったのだ。このオファーは「誕生日プレゼントに渡された小鳥のオモチャ」なのだ。思いもよらない評価。このオファーを私に出すことが「正しい」とそう決めたから「正しい」のだ。プレゼントは受け取るものだ。慣れない仕事をすることにした。

文体を身に馴染ませる為に、幾つもの細かいテキストを書いた。情報を削ること。台詞の言外に文脈を持たせること。出来たつもりでいても、稽古場にもっていけば書き直しを命じられた。それでまた、異なる方法で文体を捜した。具体的には、情報を滞留させること。普段の私の戯曲では、ある情報が提供された瞬間、登場人物たちがそれを消費し尽くす。いま出た問題を、その場で処理する。その処理の方法を趣向として見せる。だがそれは極めて戯画的な手段だ。口語的な表現とは真逆である。試したのは、情報は処理されないままに、何となく共通の問題意識として場に滞留させておく。そのムード。問題意識をテコに言葉と思考の不一致を表現すること。普段、真逆の表現を用いているからといって、また「その真逆」をすればいい、というわけでもない。裏表ではなく、異なる方法論。とても難しかった。今でも難しい。

会場見学で、寺のオープンテラスに立ち入った瞬間。この場所はずっとここにあったのだ、という事実が感動的だった。場所は変わらない。ただ時代や人だけが変る。それでテーマはすぐに決まった。一人の人間の「見え方」について。人間は変わらない。ただそれを観察する別の人間の視点によってのみ、その人は変わる。または、行為。行為自体は変わらない。だが時代或いは場所が変わることで、その行為の意味もまた変わる。仏教的な要素を、ということで元ネタに使った「日本霊異記」もまた、本来土俗的に伝わっていた民間神話を、仏教という新しい視点を導入して語りなおしたものである。本来、ただ不思議な話であったものに、因果応報という新しいルールを持ち込んで読み直す。世界とはそうあるもので、ただ見方だけが存在する。その見方は常に不均衡で揺れ続けている。物語もまた、一つの視点に過ぎない。であるからこそ、語る意味がある。60分、という上演時間の制約もあり(実際には65分となったが)入れ込めなかった要素もある。特に、横軸である3組の異類婚姻譚エピソードと同時に、縦軸である時間の概念を当初のテキストでは想定していたが、それをまるごと排除した。2時間の芝居だったら書いたと思う。だが60分という長くはない上演時間それ自体が、その軸を担保すると考えた。短い間に、いろいろな事が起こる。価値観が変わる。それを作中のロジックではなく、上演時間という劇外の構造に託した。これは削って良かった点だと思う。

稽古はただただ、楽しかった。俳優は劇中の人物として生きてくれた。これも普段の私の芝居ではあり得ない。日常のリアリティから大きく乖離した普段の劇作では、俳優は俳優であることを自覚しないわけにはいかないし、特殊なロジックで制御される台詞は、常に私の演出(という判断基準)を必要とするからだ。一挙手一投足、舞台上で歩く歩数、台詞を出すまでのカウントまで、私がまず指示し、そしてそれを俳優の生理で処理し、表出して貰う。それが私の「正しさ」だからだ。歪で、特殊な「正しさ」を私もまた、俳優という他者に対して施す。対して今回の芝居に関しては、本番の10日前くらいからは、とにかくずっと通し稽古をしていた。毎日、作中で生きる登場人物たちをボンヤリと眺めていた。演出、というほどのこともない。俳優に「あそこなんだけど…」といえば、「ああ、うん。そこね。こうしようかな、と思うけど」と即座に返ってきて、そしてそれで充分なのだった。ただ毎日、芝居を観ていた。私の仕事は観察していることだった。それで毎日、確実に芝居が良くなっていく。血肉が通っていく。なんだが不思議で、真っ当な気分だった。カンパニー全員で芝居を作るってもしかしてこういう感じなのかなー。と思った。東京、大阪。公演の間中考えていたのは、作品を作っているというより、作品の一部として機能しているという感覚だった。

今、私の部屋にある小鳥のオモチャ、それとネコのマトリョーシカ。不思議に馴染んでいるようで、でもやっぱり多少の違和感は拭えない。
「これさあ、でもさあ、やっぱり、俺に渡すプレゼントとしてどうなんだ?って思うんだよな」と言えば、きっと私以外の人は「いや、案外お前に似合っているよ」
とでも言うに違いない。私は半ば納得し、一方でそうかなあ…おれって本当に、そう?と微妙な顔をするだろう。『クォンタム・アリアの碧い首』は私にとってそういう作品で、他人から渡されたプレゼントだ。それを持ち帰り、部屋にディスプレイしたのは間違いなく私だが、常に私を照射する私以外の目がそこにはある。

(日野撮影)


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