2022年の話 feat.『言葉の玉手箱26号』
暮れましたね。早いものです。けれど、思い返して見ると、確かに数ヶ月前のことが、遠い昔にも感じられます。時間は人それぞれに流れていて、確定したものではないのに、毎年が確かに尽きるから、みんな生きているなあと思います。
この1年を、特にボクにまつわる一年を、語る言葉を持ち合わせません。終始、鋭く貫いてくる冷たい1年でした。それを正しく回復する方法も知らず、爛れおちていく外殻を眺めています。さまざまなことがあって、さまざまな気持ちを思って、さまざまなことを知った1年でした。
ただ、自分のことを語れないのなら、せめてボクのまわりでやいのやいのしている彼ら、立教池袋の高校生たちの作品に触れておこうかな、と思いました。立教池袋中高文芸部では、毎年部誌『言葉の玉手箱』を発行していて、その中には、「自選十句」と称して1年間(文化祭に合わせて発行する都合上、前年の11・12月頃から当年の9・10月頃)までの自身の句をまとめるコーナーがあります。今年は彼らからの依頼で、「鈴無文学賞」という、賞レースのような企画を行い、彼らの俳句を評しました。ここでは、その文章を元に、改めて彼らの作品を紹介することで、一年のまとめとします。順番は学年優先の50音順、名前は、彼らが『言葉の玉手箱』内で使っている名前を用いますので、よしなに。
杉浦拓隼
彼は高校3年生。彼らの世代は高校の前半2年間をパンデミックに潰され、最高学年だけれど、俳句や俳句甲子園とはまだまだ浅い付き合い、といった学年でした。「もっと早くこの大会と出会いたかった」というような言葉が、彼の学年の生徒からも聞こえてきたり、なかなか複雑な世代だったけれど、みんな強く頑張っていたことを覚えています。Bチームとして、地方大会で俳句慣れしたAチームと、本当に楽しそうに戦い、下克上をしてみせたのは6月のこと。もう半年も経つのですね。
杉浦くんはリアルな体感を俳句の中に落としこむのが上手な作り手でした。実際に感じたこと、実際に見たものを、脚色することなく素材のまま作品に反映させ、それが結果的にふんわりとした日常の温かみを帯びた句として現れる。読んでいて幸せな気分を味わえる句が多い印象です。作者であるために着飾るのではなく、ありのままでいることによって作者になっている姿は、後輩たちにも素敵な模範であるように思います。
上の句は、俳句甲子園に提出された句。兼題のシクラメンは、後述のさんぴん茶くんが実際に買いにいったりと、生徒にとって「俳句甲子園がなければ触れなかった言葉」だったようで、全員が苦心して作っていた記憶があります。彼ももちろん悩みながら作句していたひとり。ただ、急にぽっとこの句を送ってくるものだから驚きました。
青春の物語の中で、声変わりは自分の身体的な成長にふと気づくその代表格です。僕は割と急激に、どんと声が出なくなった人でしたが、でも、人によってはゆったりとくる人もいると思います。久々に歌った鼻歌の一番好きな音が出ないような、そんな気分。なんで気づいたんだろう、というところを、こんなふうに読者に想像させてくれるのも、穏やかさを上乗せしてくれていい気分です。なんでだろう、と想像しながら、声変わりへの気付きの瞬間をボクらの脳裏に再現してくれる、優しい一句でした。季語の選択も、その色や、花開く季節が、緩やかな声変わりの情緖を増幅させているように思えます。
他にもいい句はありますし、例えば、義足の句は、彼が実際に義足の人を見て、触発されて、調べながら入念に作った句なんだ! なんて話も交えたり、なんなら全員の全句を講評したいのですが、流石に大変なので、このくらいにおさめておきます。彼は今年の立教池袋文芸部を代表する「生活の詩人」で「生身の作者」でした。数ヶ月後には卒業する彼のこれからの人生が、穏やかな温かみに満ち溢れていることを、強く祈ります。
栗栖深月
栗栖君は中学1年生からの付き合いです。ボクが高校3年生のとき、新歓シーズンに唯一入ってきてくれた新入生が彼でした。その後、後述する米故くんも入ってきて、彼ら2人が、可愛いちびっことしてボクらを和ませてくれていたのももう随分前のこと。今や身長もとても高くなって、久々に出会った卒業生たちが全員驚いています。
最初は「ミステリーとか百人一首とか好きです!」なんて言っていて、俳句とは無縁なはずだった彼も、しっかりと先輩たちに毒された様子。今や全国的に結果を残す、俳句に激アツな高校生になりました。今年はキャプテンとして、Aチームのみならず、部活全体を引っ張ってくれていて、時間にルーズだったり、予定を組むときの想定が甘かったりすることを除いては、とても頼れるリーダーだったと思います。抜けているところも、高校生らしくて嫌えないんですけどね。
彼の熱量は、昨年の鬼貫青春俳句大賞敢闘賞などの実績以外にも、俳句に対する向き合い方にも現れているように思います。型の文芸とも言える特異なジャンルの中で、しっかりと先人の俳句を読み、俳句特有の文体をしっかりと組み切れている。俳句史を受け継ぎながら書けているという意味で、正統派な俳人と言えるでしょう。
上の句は俳句甲子園全国大会において優秀賞(中原道夫選)を受賞した一句。一瞬を切り取り、写実しながらも、そこに対して必ず作者の体感を組み込む、いわば主観写生とでも言うべきシステムが彼の俳句の特徴です。この俳句でも、地下鉄の動作を「顔を出す」という無理のない比喩によって表現するあたりに彼らしさを感じました。情景と体感を、細かく融合させながら世界を見ているのだな、という印象。
この句は、季語の力を信じて作られている、とても俳句的な一句でありながら、一方で、どこかグルービーなムードをまとって脳内音楽を響かせてくれる、現代に即した一句になっています。おそらくは、ボクの中で「地下鉄が地上へ出る瞬間」というフレーズが丸の内線の体感へ繋がり、そこから東京という言葉の持つ高揚感を伝えてくれるから。一言一言が適切に読者の想像を喚起してくれるということで言えば、省略の文芸のなすべきことをしっかりと行えている、まさに正統派な一句で、優秀賞というのも納得の結果です。「この句を出します!」と比較的素早く自身のある声を彼が出してくれた理由もわかるものです。
他の句では、諧謔味に溢れる句や、風景をしっかりと切り取った一句がありますが、そのどれも「作者の眼を通した世界なのだ」という意志の強い作品で読み応えがあります。来年は3年生、句歴や在籍年数だけでなく、学年も一番上の部員として正式に部活の幹部を担うことになると思います。なかなか忙しくなるかとは思うけれど、今の自分を見失うことなく頑張って欲しいです。
米故
前述の通り、米故くんはボクがまだ現役だった頃、後から入ってきた中学1年生でした。俳句甲子園以後だったかな? もう記憶が薄れるくらいになってきました。およよ。当時は寡黙なちびっこというイメージだったけれど、今はシュールでシブいヤツという感じ。帰りの電車が同じなので、今年は時々一緒に帰っては、車内でお互い探り探りに話していました。
口数の多い方ではないけれど、俳句甲子園ではしっかりと発言してチームを支えてくれるAチームのナンバー2。ディベートの中でも見えてくるのは、比較的古風な、というと語弊を招きそうだけれど、硬派な俳句が好みなのかな、というところ。弊部では珍しいのですが、細やかなところに気づける注意力を持って、世界の面白いところに気づき、客観的な写生をもって見事に映し出すのが彼の作品の特徴だと思います。有季定型だからこそできる句の奥行きみたいなものを、巧みに操ることができる彼は、栗栖くんとの2本柱で立教池袋の俳句力を支えてくれていました。ただ、2人の句歴が長いことに加え、どちらも特徴的な作風なので、句会ではいつも見ぬかれてあーだこーだ他の部員に言われている様子。同じ人たちと高頻度で句会を行う場ですからね、部活ならではとも捉えられます。
俳句甲子園の地方大会で最優秀賞を受賞した一句。色鮮やかで賑やかな外の光景を、少ない言葉、それも光景のみを素直に読み込んだシンプルな文体によって伝えきってくれるから巧みです。もちろん、この形になったのは何度か推敲を重ねたから、ということもありますが、初稿の段階から定まっていた、光景の着眼点が素晴らしい句で、ボクとしても、地方大会提出句でイチオシの句でした。
きらびやかな夜の屋台街か、あるいは、テーマパークの賑わいの、人混みの中心にあるような露店。電飾や人の笑顔で華やぐ街という大きな世界が背景に見えながらも、しかし、その中でも風船がひしめき合って、それぞれがそれぞれを写しているというミクロな視覚情報に気づいて、そこに注目をしたのがさすが。小のみを述べた句の中に、大の世界・雰囲気をしっかりと組み切っていて、正しくお手本になる一句だと思います。リフレインも、風船ないしは街の賑わいを伝えてくれる要素として機能しています。肩書きに名前負けしない名句でした。
昨年の全国大会入選に続き、今年も俳句甲子園の歴史に名前を刻んだ彼の作品は、他にも堂々たる出来栄えの句が多数あり、最後には自信を持って提出できる、いわば自我の存在する句を作れる作家なのだな、と感心しています。とはいえ、この部活は全員がルーズなので、期待しすぎると来年は締め切りに間に合わず失敗、とかありそうですし、程々の期待で抑えておきます。
さんぴん茶
生徒会長の彼はとにかく声がでかく、そして空回り野郎な愛せるヤツです。今年、前述の栗栖くんや後述の望月くんの受賞もあって、Aチームで俳句甲子園の実績が唯一ない選手になってしまったと憂いたかと思えば、生徒総会に出した議案が否決されたと大きく嘆き、あるいは空手の大会で小学生に負けたと凹んでいた不遇な彼です。ただ実際は、俳句甲子園当日において、意気揚々と発言し、存在感を存分にアピール。開成高校文化祭の練習試合でも好評を博していました。おそらくは生徒会でも発揮されている、見ている人を引き込むトーク力でチームを勢いづけて、試合後、「喋ることが楽しい! やりたいことをできました!」と嬉しい感想を言っていたのも覚えています。
彼はチーム内で句歴の短い方で、それを本人も気にしているような気もしますが、一方で(だからこそ、かもしれません)、俳句に対して力みがない時、実感を中心に、無理せずに俳句を作った時に輝く一句を作ってくれます。悩ましいのは、大会となると特に力んだ俳句を出してくることではあるのですが、シンプルで素朴なリアルを読み込めたときには、共感度の高い俳句に昇華されていて、美しい句が見つかります。
俳句甲子園に提出された一句でした、試合で使うなど、大会として日の目を浴びることはなかったのですが、シンプルで良い情景の句で、特に手直しすることもなく「え、出そうよ」と声をかけたことを覚えています。
彼と同じくボクも空手を習っていたことがあり、道場の空気感は多少わかっているつもりです。鍛錬の場であると同時に、鍛錬する者たちのコミュニケーションの場でもある道場は、緊迫感や、凛とした空気をまとっていながらも、どこか統一された和やかな朗らかさを持ち合わせます。先ほどまで厳しく稽古をしていた道場は、良夜という美しい月見の時間になれば、稽古の打ち上げを兼ねた宴会場に早変わり。和風な空間での賑わいを強く感じられて、良夜という雅な季語を最高に活かしてくれています。
人々の賑やかさを直接的にわかる表現ではなく、溢れている靴という、少し離れた空間を詠み込んだところがポイント。寄物陳思とでも言うべき、日本詩歌の良さを引き継げている気がします。一から十まで和風な、落ち着いた一句に仕上がっていました。
生徒会長の任期も満了し、来年はより集中して取り組んだ結果が示されるはずです、というとちょっと重たいものを背負わせてしまいますが、今年のことも引き継ぎながら、いつも通りのナーバスさを、綿密な準備のために発揮して欲しいです。
最後に付け加えるなら、冬の句がないのは君たちが試合のない期間すぐサボるからだと思うの……
みやけ
昨年〈蝉は雪を見たくて殻に目をのこす〉で鮮烈なデビューをした彼、とイジるとあとで怒られる気がします。いや、イジっているつもりではなくて、あまりに印象的で尊敬の念を込めて述べていますからね。
口数が多いわけではないけれど、思い返してみると、常々面白いことを言っている、しているイメージがあって、フラットな声質とは裏腹に、めちゃくちゃお調子者なのでは、と気づいたのは、今年深く関わるようになってからでした。ちなみに、「FILM RED」の試写会が当たったとのことで、部内で数少ないONE PIECEの話通じる要員としても重宝しています。早く他のみんなも読もうよ。来いよ "高み"へ。
普段、どこかクレバーな雰囲気のひょうきんさがある彼は、世界を見るセンスに溢れた作家です。昨年の一句も、その世界の見方が強く出ていた一句でしたが、今年はそこに技法が少しずつ上乗せされたのかな、と感じます。彼の繊細な視点は、ありきたりだけれど、大事な大事な人生の一瞬を、とても優しさのこもった詩情によって読者に伝えてくれます。感受性豊かな彼の才に魅せられた人は、少なくないはずです。
俳句甲子園で使用した一句。試合の結果としては「負」の1字がつけられているけれど、正直ボクはその1字で無視してほしくないな、と思っています。しりとりの最中、言葉に詰まってうろたえながらあたりを見渡すと、一面中に「七月」が詰まっていた。例えば、カレンダーや時計のように直感的にそれがわかるものが、また、かき氷やサマードレスのような季語としてそれを表してきたものが、そして、ガラスの反射や看板の古び方のような今ここにいるから「そうだ」と感じられるものが、全力で七月を伝えてきてくれる風景が読み込まれています。広々とした爽快感あふれる内容が、日常の光景にしっかりと内包されていて、これは、七月を大きく詠み込んだ一物詠と言って過言ではないでしょう。
この句をはじめとして、彼の作品の良さは、風景を切り取るというよりも、その風景の中に立っている主人公と対話をさせてくれるところにあるなぁと感じます。この句においては特に下五の部分でしょうか、「見はるかす」という言葉によって、主人公が実際に味わっている夏の風が、爽快感が自分の目の前に現れます。なんと美しい読書体験。ボクは句の中にいる、名前も知らないその人と、ちゃんと微笑み会えた気がするのです。
ヒットメイカーな彼ですが、とはいえ実は句歴もそこまでな2年生。文体が発見に負けてしまったり、あるいは発見を損なってしまうことも時々あって、まだまだ伸び代十分です。高校生としての完成期とも言える3年生では、どんな進化を遂げるのだろう。とても楽しみ。でも、こういう期待が、あまり心の負担にならないといいな、とも思います。なにせテスト終わりに本当に心配になる風采をしているので。
望月陸玖
今年はあるタイミングまで信用しづらい上髭があった望月くん。マスクを外したときびっくりしました。サングラスまでしちゃってチャラチャラな格好で部活に参加してましたね。なんだかんだ長くこの部活動に携わっている身としては、その立ち位置は彼に引き継がれたのかあ、という気持ちです。ちなみにボクの中では、なんとなく笑顔のイメージが大きくて、部室に顔を出そう、と思うときに頭にちょっとちらつきます。もしかして、恋!?
冗談はさておき、作家としては、作風はまだまだ不安定ですが、それでも今年はしっかりと自分の好きな「良さ」の方針を見つけてくれたのかな、と思っています。そのひとつが、ロマンチックな物語。割とオラオラな雰囲気もある彼が、その方向性なのは、意外なようで、一方で、優しい喋り口を思い出すと、納得感もあります。
彼の成功している句の多くは、ときめくような素敵な言葉遣いによって装飾することによって、細やかな一瞬の事象を、壮大な舞台まで引きあげた作品。一方で、空回りしたときは、巨大な物語に気を取られて、内容を伝えきれなかった、という感じの物が多いのかな、という印象を受けます。どちらとしても、キラキラとした美しさを核として、広がっていく読書感がありました。
彼は今年、俳句甲子園全国大会で入選を受賞しました。ただ、後ほどご紹介するその一句より、如実に彼のらしさが出ているのは、上の一句ではないでしょうか。
しめやか、というと、葬式の掛け言葉のようなイメージもあり、物悲しい印象を受けます。ただ、この句は「しめやか」という言葉に、それまで培ってきたものとは異なる新たな静けさを与えようという気概がありました。その役割を果たしたのが下五の季語のように思えます。菊日和という、明るい黄色を思う爽々しい晴れ間には、やはりポジティブなニュアンスを感じますし、それによって、どこか「十字架の埃しめやか」という語も輝いているような、あかるい湿度と静寂が響き渡ります。ひとつひとつの言葉選びが、ロマンティズムの一本線の中を離れきらず、それぞれがお互いの言外の意に干渉することによって、新しい意味の脈動が感じられる。一句の中にしっかりと魂があり、内容としてではなく、一句という生き物の命が感じられるところこそ、彼の作品の壮大な舞台なのです。
下の三句目による俳句甲子園全国大会入選で、しっかりと箔もつきました。そして、部活動の中で、自分が「どのようにできていないのだろう」と真剣に悩んでくれるその姿勢は、きっと来年実を結ぶと信じています。彼の笑顔が、悲願の出来事によって、より明るく輝くと嬉しいです。
Kappeline J Mishel
今年になって初めましてだった彼は、話してみたらご近所さんでした。ご近所トークも、少年ジャンプトークも、なんでもお任せあれな彼がいることで、部活動に顔を出した時に気が和らいだことも幾度か。やはり、バックグラウンドが近い人がいるととても心地よいですね。ただ、注文があるとすれば、この号で初めて見た筆名がとても難解なことです。誰なの……? どこなの……?
昨今の俳句世界において、彼の作風は非常に特異なものだと言わざるを得ないでしょう。ボクも比較的その部類にいるので、まさか部員からこんな逸材が出るとは……と感嘆していました。ただ、口語俳句としては、ボクらのように韻律から逸れて、客観写生とは異なる、主情・一人称の物語に進むことは、それほど新しい動きではないので、読解するみなさんはこれに面食らっていてはいけませんよ。
と、一括りにしてしまいましたが、彼の句はボクの句と明確に一致しているわけでもありません。彼の句の中には、彼自身の体感が根づき、彼の持つ想像力を僕らの前で実演してくれるような動きが見られます。一句一句が、彼の生活に紐付き、彼が五感で感じ取ったものを、素直に射出しているという点で、私たちは彼と同時にリアルな光景を体感することになります。
上の句は、俳句甲子園地方大会に投句された一句でした。実際には試合に使用されなかったものの、締め切り当日に急遽Bチームに迎え入れられたメンバーながら、この一句を持ち込み、速攻でチームの穴を埋めてくれました。地方大会でのディベートや、あるいは全国ではAチームの補欠として、作家としての熱量とともに強く、かつ、的確に指摘をしてくれるところが印象的で、この部で最も頼りになる存在でした。
句の内容は、やはり素直に読まれていて、1本の棒状の風船がいくつもの丸い束に分裂し、犬のかたちに変化していく瞬間を、作者の感じたことを中心軸に据えて、思ったままに詠んでいます。面白いのは、その詠み口が、図らずも風船という季語に新たな春の季感を与えているところでしょうか。風船は元来ぶらんこなどとともに、子どもが遊ぶほのぼのとした光景を春らしさと捉えた季語ですが、この句では、無機物が細胞分裂のような動きによって動物を模していく≒生命となっていく瞬間を捉えており、新たな生命としての風船が詠まれています。それが、生命の脈動の季節として名高い春と呼応していく。風船はこのために季語に選定されたのではと思うような一句です。
鳥取で行われた短歌の全国大会でも一番上の成績を持って帰ってきてくれた彼は、短詩人という括りでは部内でも随一の実力者と言っても過言ではありません。俳句というジャンルでは逆風も強いかと思いますが、どうか、無理に他者に流されることなく、彼自身が手に取った、俳句が受け継いだ情緒を定型外の新たな地平から観衆に訴えかけられる「力」を磨き続けて欲しいですし、ボクも頑張らねば、と思わせてくれる作家です、これからの活躍を切に願います。
古馬古葉
最後になります。今回唯一の高校1年生の古馬くんは、つまりはボクと立教池袋生だった時期の被っていない最初の世代です。中学1年生のころ、羽田でチーズバーガーセットを買ってあげたのを覚えていますが、あのちびっこがこれまた大きくなって。もう高校生ですか。早いものです。
Bチームでは、チーム内で最も句歴の長いメンバーとして、その中核を担いました。1年生の時点で、それもチームメイトが全員先輩という中で、その立場を続けるのは大変だったかと思いますが、よく勤め上げてくれました。結果こそ地方敗退でしたが、地方大会でのAチームに対する下克上は、両チームの句の出来の差だけではなく、彼ら自身の頑張りや熱量もあってのことだと思います。
彼の作品は、少し気の抜けたところが心地よい句が多いです。発見した出来事を「俳句として全力で描写してやろう!」と意気込んで作られるのではなく、スマートに、自然と韻律に収まっているような感覚。もちろんそれが成立しているのは、着眼点の良さによるところもあるのですが、高校1年生というフレッシュな世代だからこそ、というのもあるのかな、とは感じます。
上の一句は俳句甲子園地方大会に提出された一句。結果として試合に使用されることはなかったですが、出ていたら審査員の先生方の評価がどうだったのかは気になるところです。
この句は、前夜祭の賑わいを無理なくシンプルに表しながらも、どこか変わった視点を感じられます。例えば風船に対して、散らかっている、とアイロニカルにも感じられる言葉を持って説明するところ。彼の性格もあいまって、らしさが心地よくも思えます。ただ、この散らかっている、という言葉は、そのままの意味だけではないように思います。前夜祭の賑わいの中、ようやく飾られた風船も、これから飾られる風船も、ビビットな装飾として祭りを彩るわけです。この風船も人もごったがえしているような、にぎやかな体感こそが、散らかっているという言葉の本意なのではないでしょうか。実際に散らかってしまうばかりの本祭や後夜祭では、この読みができず勿体ない。前夜祭という特有の場だからこそできる発見で、表現の不思議さと反して、心から楽しめる一句に昇華しているところが素敵です。
まだまだ伸び盛りの彼は、来年から句歴の少ない同期や後輩が入ってくることによって、より重役を担うことになります。彼自身も、現状に甘んじず、俳句をより深く学び、ステップアップしていくことで、立教池袋に古馬あり、と言わせるような、最高のエースを目指して行って欲しいものです。
ボクが俳句を続ける最も大きな理由は、きっと彼らの影響を受けているからです。いつも偉そうなことを彼らに宣っていますが、実際に良いものを得ているのはこちらなのかもしれません。部内講座「田村塾立池会」の参加者数を見るに、来年はもっと人数も増えますし、まだまだ生きのいい生徒がたくさんいます。どうですか、うちの生徒たちは。最高に気になって、追っかけちゃってくださいよ。自信を持って紹介しますから。
ちなみにどうでもいい話というか、急に生々しい話で恐縮なのですが、普段から彼らの俳句を山ほど読んでいたり、彼らと膝を突き合わせながら俳句の指導をしているので、こんな風に鑑賞する他、俳句についてあれこれ喋ることは可能です。もし、誤ってボクに興味を持ったりしてしまった際には、下記のURL内、CONTACTよりご連絡ください。お仕事の依頼、お待ちしてます。
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