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俳句甲子園の話──岩田奎「俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法」を考える

 あ、今回は俳句甲子園関係の感動的な話はしません。期待してた人たちはごめんなさい。でも、そういうの長引かせるのって、野暮ですよね。彼らの話は、彼らのための時間でします。そんでもって書いてみたらすごい分量になっちゃった。夏の課題より文字数書いてます。でも頑張って読んでください。


・ことの発端

 なんで改めて俳句甲子園の話をしだしたのかというと、俳壇で今羨望の眼差しを集めまくっちゃってる大会の先輩、そうあの人が俳句甲子園についての記事を出していたから。

 岩田さん、これ、全然高校生向きじゃないよ! むしろ記事のタイトルがセンセーショナルで、出だしが開成4連覇を分析的に見ている文章で、終わったばかりのタイミングの高校生は、もやっとするかもだよ!
 ……勢いだけのツッコミはさておき、内容じっくり見てみれば、やはりさすがの岩田氏とでも言うべきでしょうか、的を射た話をしてらっしゃいます。でも、ボクはこの文章は、高校生ではなくて、卒業して、選手ではなくなった人に読んで欲しいように思いました。そんな感覚で、一応補足的にボクの思いも書いてみようと思ったわけです。アンサー文とか批評文というよりは、触発されて書きたくなっちゃった「ボクの話」なので、ご参考まで。

・地方ごとのバランスと「アーカイブ」の存在

 俳句甲子園を東京会場から出場するとよく耳にする(あるいは目にする)のは「東京強過ぎ」とか「地方のバランス」とか、そういう話。出てる側だって思わないわけではないです。今年は東京第二会場のチームが全て全国の舞台に上がることとなり、生徒から「僕たちが地方を勝ち抜いた意味はあったのだろうか」というぼやきや、疑念が出ていました。参加生徒が大会に違和感を感じる、それも勘違いなどではなく、結構具体的なものとして向き合わなきゃいけないのは、ちょっとした問題だとは思います。もちろん、問題があるからってそのことを安易に糾弾するのを是としているわけではありません。
 なんでこんなにバランスが取れないの? というところ、岩田氏もボクの考えと同じ理由を述べていましたが、ボクの言葉で言い換えるなら、「アーカイブがどうしても都市部に集中している」ことに原因がある気がします。ここでいうアーカイブとは、「俳句甲子園出場を手伝ってくれる人たち」のことです。例えばOBOGとか、例えば繋がりを持てた俳人とか。そのかたちは様々。

若いOBOGのことを考えるとどうだろう。卒業先の進路が近場の大学であれば、なにかの折にちょくちょく指導に訪れることが可能になる。これは高校生とは関係のない問題だが、大学生が俳句を続けられる環境の整っている地域やコミュニティは限られている。そういうことも相俟って、投句審査の通過校とか本戦の上位校はほとんど三大都市圏ということになるのが現実である。というか、コロナ禍による地方大会の中断を経て、そのような現実がとうとう隠しきれなくなり、いまもそのままになっている。

岩田圭「俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法」
https://weekly-haiku.blogspot.com/2023/08/blog-post_280.html

 俳句甲子園において、「アーカイブ」は重要な役割を持つことが多々ありますが、重要なのは、アーカイブ役がいた方がシンプルに学びやすいってこと。先生やOBOG・コーチという存在は、文芸という答えのないジャンルに、一種の模範解答を与えてくれますし、何より、先人たちがどのような道を通りながら進んできたのか、どのような考えで続けているのか、どのような基準で選別していくのか、という情報の蓄積を間近に置くことができるのは、成長するためにはこれ以上にない栄養剤になるはずです。
 しかし岩田氏のいうとおり、特にOBOGは、どうしたって進路の都合、学校から離れて都市部に移転することが多いのではないでしょうか。卒業して、大学の都合で都市部に来て、母校と疎遠になっていったり、別の学校を教えることになる、という人を、それなりにボクも見ています。そういう結果の積み重なりが大会初日を勝ち抜いた四校が、「中高生俳句バトルinあらかわ」の出場校のみだったという事実につながってしまう気はします。
 岩田氏の記事、あるいは岩田氏の活動はその点ものすごく希望にあふれた記事かと思います。そうです。コロナが残したのは何も心の傷だけじゃありません。オンラインでの仕事の仕方が日本に普及したのは、まさしくコロナの恩恵だと思います。

企業秘密に触れない程度に私たちのやり方を説明するとこのようなものになる。zoomを繋ぎ、句ができた端からGoogleフォームに打ち込んでいってもらう。そうすると自動的にスプレッドシートに句が連なっていくのでこれを見て、良いもの、推敲すれば目があるものに印をつける(佐藤文香さんも灘ABをほぼ同様のシステムで指導していたらしい)。とにかく多作を旨として、字題やテーマ題を与えて生徒の初期段階の発想を逸脱できるような呼水を設計する。

岩田圭「俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法」https://weekly-haiku.blogspot.com/2023/08/blog-post_280.html

 随分汎用性の高い方法を公開してくれてます。だからこそ、卒業して、選手ではなくなった人に読んで欲しい。事実、コロナ禍では我々もZoomでの指導を試みたし、Googleフォームでの俳句提出をしてもらった経験についても、思い当たる節が。コロナ禍は世界を断絶させ、交易や移動という意味で境界を強固にしたけれど、その間もツールはたくさん改良されて、距離という弊害を取り除くことも簡単になりました。もし時間が許すのならば、遠方からでも、自分が勉強してきた知識や見てきたものを、母校に還元していく、あるいは、何処かから得た知識を高校生に流していくケーブルとして、機能するOBOGが増えていけば良いことな気がします。

 さて、なぜ「アーカイブ」という言葉で指導者を置き換えたのか。それは俳句というジャンルが結構「情報戦」のジャンルだからです。
 昨今の俳壇におけるホットワードのひとつに「参照性」という言葉が挙げられるでしょう。この語をボクは、作品を先行句からインスパイアされる形でつくるその技法を語るタームかと認識しています。俳諧的な語で述べるならば、「面影付」みたいなところに当たるのでしょうか。でも俳句で先行句を引き受けて作るというところは、歴史的に見れば意外性は薄いです。和歌においては、「本歌取り」という語をみなさん一度は聞いたことあるでしょうし、あるいは、俳諧では付合のヒントとして、よく「みんなが知っている有明な歌」に引っ掛けたイメージで語の連結を保ってきました。
 「俳句」というどれよりも短い詩文においては言外の意、暗示的意味が強い効力を発揮します。「俳句は省略の文芸」なんて言葉もありますし、もしかしたら我々は「何を書かざるべきか」を思考しながら書いているのかもしれません。「参照性」はその一つの解決策だと思います。もちろん、「参照性」以外にも、俳句がなんらかのイメージに頼って語を扱うことは常々。初心者にとって、俳句を「読む」のが難しいのはこの部分。「言ってないけどみんながわかるお約束」みたいなものを重要視するところなのでは。ボクも正直、この側面を好きかと言われると……
 「アーカイブ」たる我々は、高校生たちの手の届く「イメージの情報量」を増やすことがひとつのお仕事です。過ごした年月が少しでも多ければ、読む本も、出会った人も、体験も、少しばかり多いはずで、それだけボクらは言葉と知り合っていて、もし仮にあなたが俳句を続けていて、より良いものを残そうとしているのなら、俳句のためのイメージだって多少増えているはず。そうやってボクらの中に蓄えられているものが、高校生たちの手の長さを伸ばしてくれる。それに、一人の脳に蓄えられる量なんてたかが知れてますから。だから「アーカイブ」。ちょっと年上なだけで簡単に人の役に立てる。これほどありがたいことはありません。

・本当に「指導者ゲー」だけの大会?

 なんの知識もなしに勝ち上がれるほど、俳句甲子園は甘くありません。ある程度俳句の知識にアクセスする術がない限りは、結果を残すのは難しい。さらに、俳句甲子園には「鑑賞点」がありますが、そもそもその鑑賞点は俳句的な知識に起因する上、審査しているのが「俳句」のプロで、「俳句甲子園」のプロでない、そもそもの配点が少ないことなどを理由として、鑑賞点が作品点をひっくり返すということは、まず起こりません(その現状が、果たして良いことかという議論は、本稿では割愛します)。だから「指導者ゲー」になりやすいのは、致し方ないことではあります。
 でも、コーチ・指導者がいれば俳句甲子園を勝ち抜けるほど、俳句甲子園は甘くありません。コーチがいるだけで勝ち抜けるのであれば、岩田氏の挙げていた優秀な俳人が教職として勤めている学校は、もちろん現段階でも、各校素晴らしい句・素晴らしい実力でしたが、それ以上により鮮烈な結果を残しているように思います。これは「(再現性をもって)勝つ」ということとは少し逸れるかもしれませんが、私立でもなく、男女別学でもなく、大層な指導者がいると聞いたことのない学校で優勝しているところもあります。ですから、「うちに指導者がいない……」ということに悲観的にならないで。俳句甲子園を代理戦争にしないためにも。

 部活を、チームを強くしていくのは、結局のところメンバーの貪欲さにあると思います。重ねてになりますが、全国を見渡せば、「指導者ゲー」という言葉を突っぱねてくれる学校はありますし、それは俳句甲子園の短い歴史の中にも確か。でも、「指導者ゲー」をひっくり返してきた(あるいはその片鱗を見せた)チームというのは、必ずと言っていいほど、向上心が高くて、自らがなんでも吸収しようという情熱を持っています。
 人に頼らなければ得られない「アーカイブ」もあるけれど、自分の努力だけでも得られる知識だって沢山あります。例えば入門書、例えば句集、例えば俳論、例えばWEBサイト……「アーカイブ」もそうですが、自分で自分が欲しいものにアクセスする手段はたくさんあります。まずは自分の手の届く範囲で、よく学び、よく作ること。これほど手っ取り早いことはありません。
 また、教科書になる材料は、何も先人たちだけが持っているわけではありません。例えば俳句甲子園。例えば練習会。例えば授賞式。昨今はSNSなんかもあります。その中で出会う身近な「憧れ」。全国には、自分と同様にひたむきに努力している人が、意外とたくさんいるんです。だからそういう人たちからも、常に貪欲に、吸収しにいこうとしてみてください。気になった人には、臆せず「教えて!」とか「一緒にやろう!」話しかけていきましょう。そういうのを許されるのは、若者の特権です(と、弊校のもう一人のコーチ、進藤剛至氏が教えてくださいました)。練習方法に著作権はありませんから、他の学校の同志に尋ねてみてもいいかもしれない。そうして学びつづけた先にある、「あなたたちらしさ」の下でチームが組み上がるといいな、と思います。

・指導者って、OBOGって、どうあるべきだろう

 でも、チームが強くなれば、学校が結果を残すようになれば幸せなのか、というと、それは明らかにNOです。もちろん、指導者は生徒がなるべく良い成績を試合で残せるように努力します。そのためにいわゆる「6点句を弾き、7点以上の句を残す作業」を行います。

指導者の仕事は、というか俳句甲子園で勝つ方法は、8点以上を得るような「いい句を残す」ことではない。6点がつくような「ダメな句を残さない」ことである(賛否が分れることを承知で冒険句を出すのとは意味が違う)。

岩田圭「俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法」
https://weekly-haiku.blogspot.com/2023/08/blog-post_280.html

 ただ、これはあくまで「生徒が良い成績を残したいと望むから」です。活動というのは常に生徒ファーストであるべきで、もちろん厳しい眼をもって彼らの句に向き合うことは必要だけれど、彼らの「ダメな句」を残さないために、そういう句を掃き捨てるように扱ってしまっていいものか、と思います。あっ、念のため、岩田氏がそのような行為をしているのではと懸念しているわけではありません。山形東高校ののびのびとした試合風景は、おそらく岩田氏と彼らの関係が良好であることの証明になる気がしますし。

 もし指導に携わることになった場合、大袈裟にあなたのことを「指導者」と呼ぶのであれば、それと同時に大袈裟に「教育者」とも呼ばなければならないと思います。そして、「教育者」たる我々は、苦い顔をしながらでも、「生徒の出したい6点句」を受け入れなければならないときがあるのではないかと思うのです。それは責任逃れをするわけではなくて、彼らの高校生活で、彼らの舞台だからこそ、そして、創作という要素があるからこそ、彼らの魂を尊重して接するべきだとか、そんな心情。

 突然ですが、指導している立教池袋中高の話をボク目線でしてみます。でも、晒す手の内は特にないので、参考にするようなことではないと思います。
 俳句甲子園の時期、弊校文芸部の活動は全て俳句甲子園に向けてのものになります(本当は並行して別ジャンルもカバーしたいのだけれど、現状は悲しいかな、本当に”全て”俳句甲子園向け)。なので、常々作句をしてもらって、コーチ陣営がその句を吟味します。
 弊校のコーチ陣は、前述した、お仕事の合間を縫ってきてくださる社会人コーチの進藤氏と、学校が隣接していて、活動にほぼ常駐している学生コーチのボクというラインナップ。我々が活動時間で句を見るときは、句会の選者のようなかたちが多め。形式上、生徒の句を選して、選んだものについてコメントしていきます。その際、なるべく広く網羅できればいいな、と思いながら句と向き合っています。幸い、守備範囲の異なる二人で務めているので、満遍なくとは言わないまでも、広い範囲をカバーできているのではという自負はすこし。それでももっと広く構えてもいいかなと思い、生徒には時々「OBにも送ったら?」と伝えることもしばしば。たくさんの意見を踏まえることに損はありませんからね。まあ、時々コーチ二人、あるいはそれに加えて先輩や、OBから相反する意見を同時にもらったりして、頭を抱える生徒も出てきますが、そこはご愛嬌。
 正規の活動とは別に、ボクの方には時間を問わず生徒から俳句が送られてくるようになっています。送る際は部活で見せたことがあるものをもう一度送っても良いことにしていて、ボクはそれに選するのではなく、「全句評」というかたちで返します(正直なかなかカロリーが必要なのでオススメしません)。その句のどこを評価/懸念しているのか、あるいはボクが作品というものをどう見ているのか、そういった感想を、なるべく具体的に彼らに伝えられていたら、いいなぁ……
 色々な形式で彼らに意見を渡すけれど、「遠慮せず全力で食い下がってください」というのがボクらのスタンス。ボクらは全能ではないし、見落としは必ずある。あるいは、ボクらの感触だけが正義ではない。だからこそ、生徒が「この句は選もらってないんですけどどうですか!」とか「こっちのが好きなんですけど!」とか口を開いてくれるととても嬉しい。そういうときは、相手を引き下がらせるために伝えるのではなくて、あくまで感想として「ここはこう好き/懸念する」「君の表現にはこういう意図が見えて、ボクはこういう工夫が欲しくなった」などを伝えています。それをどう活かすかは、彼ら次第。
 そして、最終決定権を持つのは彼ら。弊校では、オーダー表の管理を生徒に任せています。だから、ボクらから渡した意見は、最後は彼ら自身の判断材料として使われる。絶対的な指示ではなくて、句を検討する際の素材として用いる一意見といったところでしょうか。最終的には「全てを踏まえた上で、本人が出したい句を出しな」と伝えているから、実際にオーダー表が提出されるまで何の句を選んだのか知らないことだってある。でもそれはそれでいいこともあるんです。だって一生に一度の青春だもの。他人の意志で勝つのではなくて、自分の信じたもので行けるとこまで行った方が、素敵。

 岩田氏のタイトルに反発するように見えてしまう(でもおそらく岩田氏のあのタイトルはキャッチーさが重要であって、ボクの言いたいことと氏の論が反発しているかといわれると、そうではない)けれど、でも、俳句甲子園はプロスポーツではありません。だから、「勝ち」を狙うにしても失ってはいけないものがあると思うのです。それは「楽しさ」とか、「自我」とか、そういう漠然とした、指導者が与えられないもの。前回の記事から重ねて述べますが、ボクの哲学では、コーチの仕事は「勝たせること」や「賞を取らせること」ではなく、生徒が定めた目標まで全力で向かえるように支えることです。並走して、一緒に悩む。悩んだ中で時々出てくる、彼らの欲するものをすぐさま渡せるように、準備しておく。そういう仕事だと思います。だからこれから指導に携わる人には、どうか「強豪校を育てる」みたいな意識ではなく、あくまで「彼らのための部活を守る」という意識で関わってもらえればいいな、と思います。

 そういった意味でも、OBOGや、これから指導をしたいと思う人は、彼らを自分の夢や野望の替え玉にしないように細心の注意を払ってください。悲しいことに、暴走していく指導者と、その指導者に傷つけられる生徒は珍しいことではなく、ボク自身も日々加害者になっていないか自問しています。彼らは彼ら、自分は自分です。どれだけ自分の代に思い入れがあっても、もうその代が俳句甲子園に復活することはないし、どれだけ学校名に思い入れがあっても、ボクたちが学校の代表として舞台に立つことはありません。
 そして、彼らの結果は彼らのもので、指導をした我々の手柄ではありません。いわゆる「勝ったら彼らがすごい。負けたらボクらの責任」ってやつ。ボクらがやるべきは、黒子として怠けずに彼らを支えること。とっても大変で、誰に褒められるわけでもなく、実績も増えず、割りに合わないなあって思うことだってあるかもしれないけれど、やりがいと、得られる感動は、ボクが保証します。

・終わりに(どちらかというと高校生と、高校生を吟味する大人へ向けて)

 最後にすこし視点を変えて。俳句甲子園が終わると大抵「これからもぜひ俳句を見せて」とか「彼らがどんな俳人になるのか楽しみ」みたいなことを言う人もちらほら。でも、ボクは俳句甲子園出身者に対して軽率に「俳句を続けよう」と伝えるのは、実は好きではありません。それはボク自身が俳句の世界や俳句をやっている人たちのネガティブな側面、風通しの悪さや因襲的など、そういう言葉でオブラートにつつまれるヘドロのような実態を、高校生の時分から薄々感じていたということもありますが、他にも、「俳句甲子園」が「俳句」と非なるものであることを「俳句」の人々があまり理解してくれないことにもあります。よく俳人の方々は慰めのつもりか、高校生に向けて「俳句に引退はない」と言いますが、「俳句甲子園」には明確に引退があります。あるいは「俳句甲子園」には明白な勝敗があり、それは間違いなく「俳句」にはありません(というより、あるべきではありません。優劣は、読者の中で生まれてしまっても仕方ないですが)。俳句甲子園の中で得た物が、俳句の中で有益に使えたことはあっても、俳句甲子園の中で負った傷を、俳句が癒してくれたことは、ボクの経験では一度もない。俳句甲子園は俳人の原石採掘場ではありませんから、ボクは絶対に「俳句を続けてね」と言いません。
 それぞれの母校の(あるいは同じ大会の)後輩を指導するOBOGが増えていくのは大会としては嬉しいこと。でも、「俳句」と無理に関わる必要はありませんからね。ここで俳句との関わりがなくなっていく人も、「それでも」と俳句に関わる選択をしていく人もいていいんです。ボクは「俳句と携わる」あなたではなく、「あなたとして生きる」あなたを、心から応援します。



追伸:画像は昨年帰路につく直前に飲んだみかんビールです。「選手」ではなくなってから行く松山の楽しみ方を模索中。ありがたいことに幾度か訪れているので、毎年悩みがち。嬉しい悩みだ。

追伸2:拙文に対して岩田氏から反応をもらってちょっとウキウキ。こうやってときめいてしまうのは同大会で同地区からの出場生徒として氏を見ていた頃の名残だなあ……

 すごく具体的なシステムの話としての岩田さんの記事と一緒に、というと畏れ多いけど、抽象的なボクの言葉も、悩めるOBOGや、これから引退していく人たち、欲を出すなら現役生も助かるツールになることがあったら、たまらなく嬉しい。ボクらは指導側に対してのアーカイブにもなりつつあるので。

追伸3:角川『俳句』11月号において、大塚凱氏による俳句甲子園のレポートの中で岩田氏の文章からの一連の流れとしてこの記事が触れられていました。ありがたい…… いつかは自分が話の発端になれるようにデカくなりたいですね。

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