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私がモノつくりを始めるきっかけとは?(2)

ハンドメイド作家のPlava Stabloです。

会社勤めのころ

私はちょうどバブル崩壊直前の時期に、会社に就職しました。特に大した就職活動もせず、採用面接もいきあたりばったりで、相当いい加減でしたが、それでも就職できたのは、そういう時代だったから、としか言いようがありません。今なら確実に書類選考でダメでしょう。

大学では数学を専攻していたこともあり、おのずと就職先の範囲は絞られ、結局大学の先輩の誘いにそのまま乗って、当時日本で十指に入るコンピュータシステムインテグレータの会社に入ることになりました。

そこで20年以上勤め人をしていたのですが、まあ出来の悪い社員でした…

もともと、一人か少人数でこつこつと目が届く範囲で小さく仕事ができたらいいなあ…と思っていたのですが、実際は真逆でした。日本で十指に入る会社ですから、そんなしょぼい仕事は請け負うはずがありません。

私は自分の手で何か作るのが好きで、他人に作らせたり指示を出すのが全くの苦手だったので、会社が求める、大勢の人を束ねて業務を回していくような仕事ができず、会社の意向に沿うような成果が出せなかったのです。

そんなダメ社員の楽しみは、海外旅行に行くことでした。

1992年に、学生時代の友人たちと初めて韓国に行ってから、アジアを中心に年2~3回ほど海外旅行に行っていました。

1996年に、初めて一人でタイを旅行してからは、ほとんど海外は一人旅で行くようになり、2003年にフランスのパリとイギリスのロンドンに行ってからは、毎年のようにヨーロッパに行くようになりました。

長くてもせいぜい10日間ほどの旅行でしたが、当時は見るものが新鮮で、日本では手に入らないだろう…と、いろんなものを大量に買い込んだりしていました。

そのうち、南米やアフリカにも行くことができたのですが、会社勤めの身では、一回の旅行でせいぜい2~3か国回れればいいくらいでした。

そんなこんなで思うところあって早期退職を決め、新しい道を探し始めたのが2012年のことでした。

手製本教室に通い始める

さしあたって時間が自由に使えるようになって、まず通ったのが、手製本教室でした。

なぜ、手製本教室かというと…

私は読書も好きで、会社員時代は懐具合も良かったので、本を大量買いしていました。ただ、肝心の読む時間がなくて、ほとんど積ん読でしたが…

当時は神保町の書店街によく行っていたのですが、今はなき「書肆アクセス」という書店がお気に入りでした。

「書肆アクセス」は、特に地方の出版社や小規模出版を専門に扱う書店で、行くたびに面白い本があって、よく買っていたのですが、その中にあったのが、田中栞さんの書いた「古本屋の女房」という本でした。

当時、田中さんのご主人が古本屋さんを営んでいて、田中さん自身も本好きであったため、いろんな古本を買い集めたりしていて、その時のエピソードを面白くまとめた本が「古本屋の女房」でした。

積ん読専門の私ですが、「古本屋の女房」は面白いエピソードだらけで、ページを繰るたびに「こんな面白い女性がいるんだなあ…」と感心して、一気に読み進めたのを覚えています。

私が退職を決めたあと、ヒマつぶしにネットでつらつら検索していた時に、その田中栞さんが自宅で一日製本教室を開いていることを知り、時間はあるし、あの「古本屋の女房」の田中さんに会える、と思い、早速申し込みをしました。

後日自宅に伺ったところ、当日の参加者は私だけで、田中さんといろいろお話ししながら、一日夜遅くまでみっちりと製本の基本の基本を教わりました。

こつこつと作っていく手製本が自分の性に合っていたようで、その後も何回か一日教室に通ううち、あなたは手製本をやるのに向いているから、本格的にやりたいのだったら、と田中さんに教えて頂いたのが、現在も通っている、中板橋にある「まるみず組」という手製本工房なのです。

2012年の夏から、ひと月に一日、午前・午後と手製本の基礎を学び、2年かけて基礎コースを修了しました。

和綴じ本や、糸かがりで角背や丸背の本を作ったりして、一通りの製本の基礎を身につけられたのは、今の創作活動にも大きく役立っています。

その間、結局私は再就職は一旦わきに置いて、鍼灸あん摩マッサージ指圧師の資格を取るため、専門学校に通うことに決めました。

以前から東洋医学に興味があったのと、いざとなったら開業できるし、一対一でじっくり患者さんと接することができるので、自分に向いているのでは?と思ったからです。

久しぶりの学校の勉強は大変でしたが、その合間を縫って、ものつくりの方もいろいろとチャレンジするようになっていきました。

(続く)



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