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父が亡くなった

あっけない幕切れ、というのはこういうことか。

昨年から、左足の水疱が消えると右足の水疱が消えるということを繰り返していた父の足は、水疱から壊疽を起こさないように毎日看護師のケアが必須となった。
訪問看護は週3回、デイケアで週3回、そして病院で週1回。
年末からかかさず看護師の方々がケアをしていた。

だが、その看護師の方々の懸命のケアにもかかわらず、
2月末頃、父の左足の薬指は壊疽の様子を呈した。

父は足に痛みを覚えていた。これは父の足先にまだ神経は通っており、
完全には足の指は壊死をしていないことを意味する。

だが、もうそれも時間の問題と見た医師たちは、膝下の切断を検討していた。大腿部の血管が詰まってしまっている父の指先だけを落としても、血の巡りが悪いために切断部の治りが悪くなること。そして、次は足首、膝下と段階を踏んで切ることが考えられたからだ。

昨年11月の初診のとき、医師はわたしにきっぱりといった。
「壊死とわかったら、即刻切ります」

仮に壊死した場所を切らずに残しても、敗血症性ショックで命を落とす危険性が高いからだ。脚をきってでも命を守る、それは医師としては懸命な判断だとおもう。

そして切断へ

2月28日の診察で、足の急激な悪化をみてとった医師からの指示は
経過観察という指示から「入院が必須な状態」へ変わった。
さらに、3月4日をすぎると一日一日と父の足の状態は悪くなり、
予約外の診察を受けに病院へいくことが増えた。

この状態の変化により、医師は3月14日に入院を指示した。
最初は血管拡張手術を。
それは膝下切断を見据えて、だ。

ケアマネージャーの方が私に電話をしたのは3月12日のこと。
医師から膝下切断の可能性を示唆された、ということを聞いたとき、
私には不安がよぎった。

父は脚を切断するショックに耐えられるのだろうか?
また、認知症が悪化するのではないか?

一度目の切断

実は、父は右足指を切断している。それはもう8年も前のことだ。
311の地震で床に落ちたガラスの破片を踏み、消毒はしたものの
みるみるうちに右足指が黒く変色したのだ。

そのとき、わたしは海外にいたために、切断のプロセスを見ていない。
だが、その場に立ち会わせた姉からは「父はぶるぶる震えていた」そうだ。

足を切り落とす恐怖。
そして、痛みを感じるつらさ。

そんな中でも父は医師に「切断しなければなりません」と言われると、
「いえ、結構です」といって病院から帰ろうとしたそうだ。


入院のたびごとに


父が認知症と医師に診断されたのは2017年春のこと。だが、それ以前に父は入院するたびに少しおかしくなることがあった。

ひとつの例は、「医師が明日退院していいって言っていた」ということ。
もちろん医師はそんなことは言っていないのに。

さらには血糖値が上がること。
入院のたびに通常の血糖値(140前後)から200、300など
超えることがあった。病院食は自宅での食事よりも栄養面ですぐれていたのに。

家に早く帰りたいっていう気持ちの表れなんだろうなぁ、って思っていたのだが
父にとっては病院が不安になる場所だったのだろう。

その父が血管拡張手術、さらには脚の切断のために入院するとなると
少なくとも最低1ヶ月の入院は必須となる。

父の認知症の症状が悪化するのが目に見えていた。

もしかしたら、もう自宅介護は難しいだろう。脚のケアの面でも、そして、認知症の症状の面でも。さらに、出費も見舞いの回数も増えるんだろうな、自分の人生設計も再度検討しなければな。
そんなことを考えながら3月14日の朝を迎えた。

3月14日


その日、入院手続きの為に、父の病院へいくことになっていた。
わたしは同時に仕事の締切を迎えていたので午前中に納品を終え、午後に病院へ行こうと決めていた。

11:30
電話が鳴った。ケアマネージャーさんからだ。
「お父様が急変され、救急車で病院に運ばれました。お母様も一緒です」

救急車で運ばれるということは、緊急処置が必要な状態。
心臓拡張手術を経ることなく、父の脚は切断か。

わたしは冷静に、そうなった場合の手続きや今後のことを考え、
納品作業を終えて

11:50
兄と姉にそれぞれ電話。姉は留守電のためメッセージを録音。
兄には「父が急変して病院に運ばれた。病院に来れるなら来てほしい」
と伝え家を出た。

こういうときに限ってはお決まりなのか。電車の接続が悪いだけでなく、
事故で遅延状態。時間がかかるなぁと思いながらホームで待っていた。

12:25
兄から電話。
「母から電話があった。父が息をひきとった、と」

ああ、間に合わなかったか。

わたしは、最初に思ったのはその言葉であり、そして同時に「脚はどうなったのか?」と思った。脚の切断をとても嫌がっていた父だ、生きている間にそれを体験していなければいいのだが。

13:30
いつもより1.5倍の時間をかけて病院についた。
母は目を真っ赤にして救急救命室の部屋の前に大きな荷物を持って座っていた。
「救急からそのまま入院かとおもって。でも…」

動揺している母を落ち着かせると、母は父の様子を話し始めた。

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父は昨夜から体調が悪かった。いつもなら夜中に起きるのは3回ほど。
でも昨夜から今朝にかけて寝汗がひどく、7回起きた。

朝食はいつもの時間の7時頃。食べた後にちょっと戻してしまった。
そのあとも気分が悪そうだったので、水を飲ませてしばらく
ソファーでラクな姿勢をとるようにしていた。

10:30

突然「うっ」と父はうなって手を上に上げた。そして、カクっと動かなくなった。

「あらやだ、おとうさん。どうしたのよ」
母が父を揺すってもなんの反応もない。訪問看護師に電話をし、
来てもらった後に訪問看護師が心臓マッサージ。それでも父の様子に変化がないので、救急車を呼んだ。

そして病院で1時間ほど処置。しばらくすると医師に呼ばれ、父が息をひきとった
ことが確認された。
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その話を聞きおわったのとほぼ同時ぐらいだろうか、救急の担当医から
呼び出しがあった。

父は病院に到着時、すでに息をしておらず、心臓も止まっている状態。
30分の心臓マッサージをしたが、回復見込みなし。開胸手術もあり得たが、到着したときの状況も考慮し、50分の心臓マッサージ後に救命活動終了した。12:25死亡確認。

つまり、書類上、父は病院で息を引き取ったが、実際は家で息をひきとったのだ。
脚を切らずに、だ。

わたしは少しだけほっとしていた。
父は常々最後は家で迎えたい、ということも言っていた。
そして脚を切ったあとの絶望感を感じることもなかったのだ。

不思議と涙はでなかった。
亡くなってよかった、というわけではない。
正直めんどくさい父だった。わがままで家族をふりまわした父だ。
そんな父に従わざるをえない、そんな鎖に自分で縛られて私も、姉も、兄も生きてきたのだ。

そんな父であっても、希望通りの結末を終えられた。
そういう結末を終えられるプロジェクトを実行できた。

そんな気持ちでいっぱいになったのだ。

ああ、こんなもんか。

医師から状況説明をもらい終わったあと、思わず口からでた言葉は
それだけだった。

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