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それでも介護する理由

(前回の父の入院話の続きではなく、今回は毒親介護に関するわたしの思うことを書き連ねたい。父の入院話は次回に)

「毒親、毒親っていうひとさ、なんでも親のせいにして。親に甘えてるんだよ」

時々知人に言われるだけでなく、ネットでもちらほらとみかける言葉。この言葉を見かけるときに、わたしは少し間をおいてからいいたくなる。

「で?」


むしろ甘えベタ……


これはわたしの経験や、身の回りの毒親育ちを見ての知見なのですべての人に当てはまるわけではない。その範囲の中で、わたしは毒親育ちはむしろ甘えベタだと感じている。

「子供が親に甘える」と思うのは、成長過程で必要なこと。
そのやりとりを通じ、こどもは、親から自立すること、そして他者と支え合うこと、他者と意思疎通をはかること、なにより健全な人間関係を学ぶことができるから。

だが、毒親の場合。むしろ親に頼る機会が得られなかった人のほうが多い気がしている。

親に甘えなければいけない時期に親に甘えられない。
そうすると、ああ自分は甘えちゃいけないんだ、と親に甘える自分自身を罰し、
適切な甘え方を学べずに、自立へと向かう。

自分でがんばらなければいけない。
親に頼ってはいけないんだ。
甘えちゃいけないんだ。

そういう自分自身へのプレッシャーが強いまま大人になると、「親へ甘えたい」という心の底でくすぶっている思いは他の形となって現れる。

「もっと仕事で認められたい」という、過度な仕事への傾倒。
「もっとわたしを愛してほしい」という、過度な他者への傾倒。

それをおかしいと思わず、「自分を認めてもらうため」「自分を愛してもらうため」に体も心も捧げすぎて壊してしまう。

毒親育ちにとっては、いっそのこと「自分のことを甘えベタ」認めてしまったほうが楽になる。
「ええ、親に甘えたいけれど、なにか? むしろ甘えられないんですけど?」


「親のせいにするのは、甘え」の気持ち悪さ

「それって甘えだよねー」と言われても。親から甘え方を学ぶ機会を得られなかったことは、事実としてある。

わたしが生きた過去が、あなたに何の迷惑をかけているのだろうか? ということを上記の発言をするひとに質問したところで、何も具体的な点は指摘されないだろう。わたしの、「毒親育ち発言」は「それは甘えだ」いう側の「親は尊敬する『べき』だ」という信念に、すこしグラつきを与えるだけ。
それに恐怖心を与えるだけだから、相手は言うだけだ。

そして、わたしはどちらかと、「親は尊敬する『べき』だ」と声高に主張する人の方に、恐怖を覚える。尊敬してるから、なんでもいうことを聞いてしまう。自分の判断が親の価値観になってしまう。親の言うがままの行動しかできない。
介護でいえば、自分よりも親のことを優先してしまう。
それが果たして健全な意思決定といえるのだろうか?
むしろ、その人は「隠れ毒親そだち」ではないのか?


「毒親育ち」と自覚するメリット

あくまでもわたし個人の仮説にすぎないが、自分が毒親育ちと自覚することにはおおきなメリットがある。

毒親育ちの人たちは、自分の意見を適切にいえなかったり、他者の意見を優先させてしまったり、我慢しすぎてしまう場合がある。そして、自分の「過度な」我慢をおかしいと思えない。

だが、一度じぶんが毒親育ちであると認識できればしめたものだ。
自分自身の行動になにか問題があるかもしれないという仮説をもった上で、
・わたしは、我慢しすぎていないか
・わたしは、人の顔色をうかがいすぎていないか
・わたしは、卑屈になっていないか

と客観視する機会を得られるからだ。

毒親育ちと自覚しはじめたころは、こういう自分を客観視する質問には適切に答えられないだろう。なんどもなんども同じ質問を自分に課す。それは自分を、さらには他者との適切な距離を知る訓練になる。

「客観視できればすべてが解決」というわけではないが、ほかの人の発言にビクビクしたり、すぐにキレそうになったり、自分がだめなんだといいう落ち込みの機会は減る。相手が何か自分と意見を違うことをいったとしても、「そうかな?」と冷静な対応ができる。これは毒親の介護にも応用可能だ。


毒親育ちで、ある意味救われたのは

毒親育ちでよかった! なんて言う気はさらさらないが、介護問題に対して比較的客観に応対できるのは、そういう育ち方だったからだろうなとは思う。

介護に関してはケアマネージャーからは「介護は自分のことを先に優先してください」ということをなんども言われている。「親だから」「親のために」世帯を別にした子供が親のためにすべてを捧げてしまい、子供すら共倒れの危険性が高まってしまう悲しい事例があるからだ。

でも、毒親育ちは毒親育ちと認識できている時点で、自分をある程度客観的に。そして親自身も客観的に見ることができる。

だから、介護に対しても「大切なお父さん、大切なお母さんだから!全部面倒をみなきゃ」のような、情熱を注がずにいられる。


それでも毒親の介護をする理由とは

本当はわたしだって、親との接点を切りたいと願っている。きって連絡をとらないで済むならばそれに越したことがないって思っている。

だが、わたしを含め、大半の毒親育ちの人たちは、親の介護をしなければいけないというジレンマにおちいっているのではないかと見ている。
その理由のひとつには民法があるから。

民法877条「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある」

そして、社会的なプレッシャーである「親の介護は子供がするべきだ」。
それまでに親がどんなことを子供にしてきているのか関係なしに、社会的な理念で親の面倒をみなければならないという鎖にしばられている。

さらに、わたしの場合。もし、わたしが介護を放棄したら、姉・兄が苦しむのが目に見えている。それはわたしは見たくない。

とはいっても、民法では介護の程度は縛られていない
だがら、親の介護はあくまでも「人として、最低限のことをやる」という割り切りができる。決して過度な介護はやらない。

親亡き後、わたしの人生はまだ続く。そのための布石を「介護」を理由にしておろそかにはできない。そして、この機会は、「失われた機会を取り戻す」ものではない。あくまでも毒親育ちとしていきてきたわたしが、毒親との適切な距離を保つ訓練の場だ。

だからわたしは、毒親とはいえ、遠距離介護をするのだ。


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でも、人によって事情はことなる。

もし、「親のせいで」眠れない、仕事ができない、人間関係に支障がでているという場合は、なにか他の病気が潜んでいる可能性があるからそちらを調べたほうがいいだろう。

親に会うことで体調を崩してしまうほどならば、介護放棄という手もあるのだろう。

それぞれの人に無理のない範囲で介護対応ができますように。

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