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【短編】チョコを貰うには苦すぎる

期待という言葉は諦めから生まれるのだと、本で読んだことがある。自分自身に諦めているから、他人に期待してしまうのだと。

その理論を適用すれば、僕は今期待しているのだろう。いつもより早く起床し、学校へと赴き、こうして誰もいない教室で佇んでいるのも、自分への諦めなのかもしれない。

暦は2月14日。
今日は何の日かと尋ねれば、通勤しているサラリーマンも、朝から寒さを厭わずにグラウンドでサッカーに耽っている学生も、バレンタインデーだと即答するだろう。もしかしたら近所を散歩させられている犬ですら答えるかもしれない。 


かくいう僕も今日という日が世間的に何を意味しているかは重々承知である。むしろ、意識しすぎたためにこんなにも早く学校へ来たのだ。


ちらりと時計を見ると、時刻は7時30分だった。
生徒は8時30分に鳴るチャイムまでに着席していれば遅刻にはならないので、半数の生徒は8時20分くらいに登校してくる。といっても部活によって朝練があったり、電車通勤の生徒はダイヤに到着時刻を制御されているので、結局登校する時間はその日によって変わる。僕はいつも一番最後に教室に入るので、どの生徒がいつ頃来ているのかはあまり把握できていないが。


だが、流石にあからさまに早い時間となるとまだ誰もいなかった。教室は誰もいないためか物音が一切なく、窓の隙間から如月の風が吹きつけているのを感じられるほどに静寂に包まれていた。そんな風音を横目に、僕はここに来た本来の目的を果たすことにした。

2月14日の朝にすることといえば、男子諸君ならよくお分かりであろう。チョコ探しである。

ここで閑話休題、先ほどの期待と諦観の相関関係が浮かび上がってくる。僕は自己肯定感が極端に低い訳ではないが、自分があまり異性に好かれているという自信がない。そしてそれらを打破するほどのうちに秘めたポテンシャルも、自分から異性に仕掛ける積極性も何処かに置き忘れてしまったみたいで、僕が恋愛という青春じみた行為をこの歳になってもまだ未体験でほぼ初見プレイなのもこれが起因している。

僕は僕の恋愛性を諦めているのだ。だから期待している。他人から動いてくれることを期待している。授業が終わったあと、突然女の子に話しかけられ、手作りのチョコレートと共に愛を告げられて、懇ろな関係に自然となっていく…などといった小説的展開を渇望している。

例年ならこんな妄想をするだけに留まっていたが、そんな理想論のみでここまでのリスクを犯しているのではない。しっかりと「当て」がある。


この教室、3年A組の生徒に、桜田詩織という子がいる。彼女は華奢な胴体に黒いロングヘアで、大人びた印象を受ける。あまり感情を表に出すタイプではない。ときたま見せる澄んだ瞳はどこか儚くて、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。僕はそんな彼女に軽く恍惚感を抱いていた。


初めのうちはA組の生徒として、たまに一瞥する程度だった。授業中にチラッと目を向けるだけ。僕は授業中、なるべく彼女以外のものにも目を向けようと努力していたが、引き寄せられるように、瞳の奥は彼女の姿を捉えていた。いやむしろ僕は彼女に捉えられていたのか、とすら思う。


彼女も初めのうちは僕に見向きもせずに黙々と板書をしたり、僕に隠れてこっそりと宿題をこなしていたみたいだったが、最近は授業中よく目が合うようになった。そんな態度から、彼女はひょっとしたら僕に気があるのではないか?と感じるようになったのだ。 


それから僕の注意は彼女へとまっしぐらだった。
ホームルームや英語の授業中、僕は彼女の行動を観察していた。おかげで彼女の筆箱にある文房具の柄とラインナップを知り、おおよそどんなキャラクターが好みなのかが把握して、流行を知らない僕は必死になって一般学生の好みを頭に叩き込んだりもした。


そんな彼女が僕を好きな可能性があるかもしれない。これは言葉通り一縷の望みで、細い細い糸に僕の全てを委ねているのである。カンダタが天国へと続く蜘蛛の糸を血眼になって登ろうとしたように、僕もまた微粒子レベルのごく僅かな可能性という蜘蛛の糸を登ろうとしている。


ただ、僕の思考には何処か欠陥がある気がする。
ここまでの話はただの恋物語なのだが、何か重要なことが欠落しているというむず痒さが残っている。いつも玄関先に飾っているジグゾーパズルが1ピース欠けているかのように、ごく坦々たるものが忽然と消え去っている感覚だ。煩悶とする。


などと考えていると、時刻は7時45分になった。
そろそろ生徒たちが登校してくるな、と思い、チョコ探しを開始する。といっても自分の机は教室の左上、黒板すぐ横にたった一つあるのみで、そう時間のかかるものでもない。


僕は全ての引き出しを確認し終わると、大きく溜息をついた。求めていた嗜好菓子はなかった。


まあまだバレンタインデーは始まったばかりだ、と膝を軽く叩く。ふと、他の机はどうなんだろうという無垢な好奇心が湧いた。この教室は学習机が6列×6列の36個存在しており、男女比率が1:1なことを考慮しても18個はチョコが存在する可能性を秘めているのだ。もっとも、男子から女子へとチョコを渡すという稀なケースもなくはないので、それを含有するとこのクラス全体のチョコレート期待値は圧倒的に高くなる。

あまり時間がない、と僕は片っ端に机の中を覗き出す。読みかけの文庫本やノートの類、中にはあまり許容し難いが、学校で禁止されている漫画などもあった。しかしここは僕の好奇心に落ち度がある、各々のプライバシーは考慮すべきだと今回は目を瞑ることにした。


そうしてチョコ探しに熱中するあまり、僕は一定に近づいてくる足音のリズムを聞きそびれてしまった。次に僕がその生徒の存在に気づくのは、立て付けの悪い教室の扉がガラガラと音を放った時だった。


その生徒は教室に入るや否や固まった。
僕が誰もいない教室で机を詮索していることに少なからずショックを受けているらしい。一方の僕も驚きを隠せずに、動きを止めて、目線を移した。


すると、そこにはあの見慣れた瞳があった。

「桜田さん…」と独り言のように呟く。


彼女は目を見開いている。普段はポーカーフェイスの彼女だが、流石に驚愕した時は隠せないんだなと感心した。

そこから10秒ほど沈黙が続いた。まだ彼女の中で予想だにしていなかった邂逅に状況の整理がついていないのか、はたまた僕の発話を待っているのか、どちらが正解なのかは僕に分からないな、と頭の中で考えていると、彼女の重く閉ざされた唇が動き出し、そのまま声を放出した。


「何してるんですか、先生?」


その瞬間、私の中で何かが崩れた。砂上楼閣のように空虚なものだったが、私はそれを意識的に意識していなかった。

私は教師なのだ。


なぜ、一番最後に教室へと来るのか。それは朝のホームルームをするためだ。教鞭を執る立場の人間はまだ始業のチャイムも鳴っていないのに教室に居る意味がないからである。

なぜ、桜田の姿を見るときは決まってホームルームか英語の授業なのか。それは私が英語を担当しているからであって、3年A組の担任を受け持っているからだ。

なぜ、自分の机が黒板の真横にあるのか。
それはクラス担任だからであり、引き出しが沢山ある机に座ってるのも、担任教師だからだ。

なぜ、桜田が好きなキャラクターを、文具から盗み見て必死になって調べていたのか。それは私がアラサーの教員で、学生の流行など微塵も認知していないからだ。

つまり私は、自分が先生であるという事実を溶解して、桜田詩織という中学三年生が自分のことを好きだと曲解し、あるはずもないチョコレートを探索していたのだ。

「先生、こんな時間に生徒の机を漁ってなにをしているんですか?」と桜田は追撃をしてきた。

改めて、文言として見ると己の異常性が垣間見える。彼女は持ち前の澄んだ瞳で、私を蔑むように睥睨している。瞳が痛い。


「いや…」と言葉に詰まる。
もう何が何だか分からなくなってしまった。私の期待は諦観でもなんでもなくて、ただただ現実から目を背けるために使われた、建前だったのかもしれない。

私は机の中を漁るために屈んでいた姿勢を正し、怯えるように立ち尽くしている桜田の元へと行った。

桜田詩織と対峙する。
私は彼女のことをミステリアスだの、大人びただのと形容していたようだが、改めて見るとまだ幼い中学生だなという思いを抱く。

彼女の手に握られている袋に気が付いた。膨らんでいる袋の上から、ラッピングされたチョコらしき物体が見え隠れしている。実際には何か分からないけど、ショッキングピンクで覆われたそれは、十中八九チョコレートだろう。

「それはなんだ?」と訊く。

「チョコレート、みんなにあげようと思って」と桜田は淡白に告げた。

「クラス全員分作ってきたの」

桜田はそんなに友好的な人間だったのかと、桜田のことを何も知らないことが露見した。だが桜田と私は教師と立場の関係でしかなく、そこには何も生じないのだ。生じてはならないのだ。

「先生のもあったんだけどね」と桜田は俯く。

過去形だということは、もうチョコレートを渡す気は無いということなのだろうか。この期に及んでガッカリしている私は、何処までもチョコレートに固執していて、我ながら悪寒が走る。

暫く沈黙が続いた。
両者、相手の動向を伺っているようで、私は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。だが、まだバレンタインデーに貰うチョコレートを諦めた訳でもなかった。

期待をしているのに諦観はしていない。
7時30分頃にたてた自分の論理の破綻を実感したが、もう感情がごちゃ混ぜになっているので、すでに私という人間は破綻したんじゃ無いかとすら疑る。

「これ置いとくね」と桜田は袋の中からチョコを一つ取り出し、教卓に置いた。これは私に対するチョコなのかと考えてるうちに、桜田は教室を去っていった。


丹念にラッピングされたチョコを開けてみる。
箱の中には、ハート型のチョコレートが一個だけ居心地悪そうに入っていた。私はそれを摘んで口の中へ放り込む。

苦かった。いや甘かったのかもしれない。
チョコを口いっぱいに味わいながら、私の中に違和感として存在していた欠陥の正体を思案した。

最初は、私が教師であることを蔑ろにしていた罪悪感かと思っていたが、もっと深淵に潜む因果なのかもしれない。

思えば、何故私はこんなにもチョコレートに固執していたんだろうか。まだ小さく口内にあるチョコの残滓を舐めた。カカオの味がする。

全てを食べ終えると、先程去った桜田の顔が思い浮かんだ。憐れむような、蔑むような。

その表情は、また地獄へと堕ちていくカンダタを断腸の思いで眺める釈尊に似ていた。

カンダタは結局、蜘蛛の糸で天へと向かえなかった。せっかくの生前に唯一した善行で得たチャンスをカンダタは無碍にした。

この話の寓話的要素はともかく、私もカンダタのように、機会を無駄にしたなと感じる。

桜田は、ほんとに私のことを好きとはいかないにしろ、少なからず好意を抱いていたのかもしれない。以前は聞いていなかった授業も熱心に聞くようになり、今日もこうして一応私の分のチョコレートを用意してくれていた。

だが、私はその好意を素直に受け取らなかった。

期待だの諦観だの御託を並べて、無駄な早起きをし、ありもしないチョコレートのために奔走していた。

私の欠損は、チョコレートへの固執心であったのか。

まだ私はチョコレートを貰えるような人間では無いのかもしれない。誰もいない教室で、虚しく残っていたチョコのゴミをポケットに入れながらそう思った。

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