「花束みたいな恋をした」を見て苦しくなった人の感想
「花束みたいな恋をした」を見た。そもそも公開直後に見るつもりだったのだけど、見終えた人たちの感想が不穏だったのでなんとなく避けていた。1年前に友達に勧められ、今日ようやく見終えた。思ったことを書いていく。
この映画は見ていてずっと苦しかった。菅田将暉演じる「麦」と有村架純演じる「絹」はどちらもサブカル好きな人間なんだけど、解像度が高すぎて叫びたくなった。日常生活とかで見たことあるなと思わせるほどにサブカル人間の描写が上手い。特に序盤の会話や言い回しがものすごくリアルだった。トーストが落ちてマーフィーの法則を参照したり、じゃんけんのシステムに異議を唱えたりするたびに、鼓動が早まった。
この映画は実在するコンテンツの名前がばんばん出てくる。きのこ帝国の曲をカラオケで歌ったり、天竺鼠のライブチケットが出たりして、それらはサブカルを表現するためのコンテンツとして登場する。私はそれをほとんど知っているし、なんなら彼らと同じように好きなので、余計に苦しかったというか、「サブカル系ってこういうのでしょ?」像に自分が該当していて胸を抉られた。
そういった見方をすると、麦と絹がそれぞれ大したことない理由で天竺鼠のライブに行かなかったのもサブカル人間にありがちな浅さを揶揄しているのかもしれない。麦の本棚もサブカル系が好きそうなラインナップだった。ヴィレッジヴァンガードみたいな感じ。そんな表現が登場するたびに、私も浅いやつだと言われているような気がして、ダメージは如実に蓄積していた。
そして大学を卒業し、麦が夢を諦めて就職をする。すると社会に出ることで責任を背負うことになり麦の感性はだんだんと消滅してしまい昔好きだったコンテンツを楽しめなくなってしまう。そして二人はすれ違うようになってしまい、別れることに。恋愛の終焉とか嫌なところとかが妙にリアルで、大学生時代とはまた違った嫌さがある。
この映画はなんでこんなに具体的なんだ。恋愛映画らしからぬ写実性がある。仕事で心身が疲弊しきってしまい、パズドラしかできなくなるという描写があるけど、あまりにもリアリティが過ぎる。
付き合い始めは「花束みたいな恋」と形容できるような恋をしていたのに、どんどん普通になっていって、最後はよくあるすれ違いで恋が終わってしまうというストーリーの組み立ても、彼らのような人間がたどる恋愛ストーリーとしてはリアルである。
そして私もまた彼らのように揶揄される人間であって、こういう恋愛をする可能性の高さを提示されたような気がする。それがそのまま苦しさに直結しているのかもしれない。けれど私はこの映画を見返す必要が来ると思っている。それはサブカルチャーを享受できなくなりパズドラしかできなくなったときで、現在進行形で自己を投影するものではなく、自分の過去を見つめるときに見た方がいい映画だろう。
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