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小川山「不可能スラブ」57歳完登の軌跡

「クライマーに定年なし。難題に挑むシルバーエイジのクライミング」


1.小川山「不可能スラブ」

廻り目平キャンプ場駐車場からの景色

長野県川上村「廻り目平キャンプ場」周辺は日本のヨセミテと呼ばれるクライミングの聖地で、クライマーから「小川山」の愛称で親しまれている人気の岩場です。

この岩場にある「不可能岩」は、「伴奏者」や「覚醒」など高難度有名課題が一堂に会してるスラブ面と、マントル面に大別されますが、総じて「不可能スラブ」と呼ばれています。

岩質は粒子が荒い花崗岩で、日本では瑞牆や豊田、海外ではヨセミテやビショップなどが有名です。

2.プロローグ「 不可能スラブへ….」

2018年大晦日、通勤中にタクシーにはねられ救急搬送。腰椎損傷(圧迫骨折・凹突起骨折)&全身打撲という大怪我を負ってしまいました。

「クライマー人生が終わってしまう・・・」

大腰筋の機能障害で左脚を上げる事が困難になり、一時はジム廃業が脳裏をよぎりましたが、理学療法士指導のもと代替機能の訓練を重ね、2019年室内リハビリ訓練終了。

室内リハビリ終了後は、グレードを短期間で戻す為、大好きな沢登りやアルパインクライミングを封印し、ボルダートレーニングに着手。

◆ボルダートレーニングの記録
https://www.youtube.com/@platinumrock3854/videos

2019〜2021年:初段〜三段で後遺障害を克服。大腰部、及び上半身のフィジカル機能回復を確認。一方急激にボルダートレーニングを進めたことにより故障箇所が悪化。

2021年秋より関節負荷の低い高難度スラブ課題「小川山不可能スラブ」にスイッチし、技術面のリハビリトレーニングを開始。

ハイボルダー故、還暦間近の自分が取りついて良い課題か逡巡したものの、リハビリ最終章を飾るに相応しい課題と判断し、この岩の全7課題(二段以上)に挑戦することにしました。

本稿では、不可能スラブ全7課題取り組みの軌跡をご紹介していきます。

尚、具体的なホールドロケーション、ムーブ等は誤解を招きかねない為、本稿には記載していません。完登動画は上記Youtubeアドレスにアップロードしていますのでそちらをご参照願います。不可能スラブの具体的な解決手段やプロセスを知りたい方は、ぜひ白金台にお越しください。誤解を生まないようできる限り丁寧にご説明させていただきます。

3.先入観が支配する世界

不可能スラブの課題は、スタートから「こんなものは持てない、踏めない」という核心のオンパレードですので、メンタル面の意識改革がとても重要になります。

「これは人間の持つものではない!持てるわけがない!」

不可能スラブと初めて対峙するクライマーはそのような先入観に支配されるかもしれません。滑りやすいコンディションの沢登りをメインフィールドにしている自分ですら、ボールペンで書いた極細線のようなホールドの存在に驚き、戸惑ったことを昨日の事のように記憶しています。

この微妙な凹凸がキーホールド

「今の自分には持てません。練習して出直してきます。」

多くのクライマーがスタートすらできず、このような言葉とともに不可能スラブから去っていくのを何度も見てきました。

しかし、先入観を捨てて取り組んでいるうちに、“持てるかもしれない”というかすかな希望が、“持てそうだ”に変わり、“必ず持てる”に変わっていくのが打ち込み系のスラブ課題です。特にスラブ生態系の頂点に君臨する不可能スラブの課題は、“持てるかもしれない”、“踏めるかもしれない”という希望に辿り着くまでに多くの時間を必要とします。

どのような力学が発生しているのか?今では説明することができますが、当初は物理的に凝着摩擦が発生していなくても、諦めずただひたすらに「踏めてる」「持ててる」という暗示を自分自身にかけていた記憶があります。不可能スラブ特有の解法を理解するまでの間、この暗示は効果的でした。

還暦間近の57歳の高齢クライマーでも、先入観を捨てれば不可能は可能になることを学びました。

「そんな精神的なことより即効性のある攻略ティップスを教えてくれよ。」

わかります。

しかし、ティップスうんぬんの前に、メンタル面の意識改革が不可欠なのが不可能スラブだと思うのです。

特別なことは何もしていません。先入観を捨て、自分に暗示をかけて、できると信じて単調な反復動作を徹底してやり抜いた結果、不可能スラブに共通する問題解決手段や実行方法を理解し、全ての課題が登れるようになりました。

ニュートンの運動に関する三つの法則(1.慣性,2.運動,3.作用・反作用)が、クライミングでも重要ですので、論理的なアプローチは欠かせませんが、不可能スラブにおいては、まずは精神論的な話をお伝えしたいと思います。

“誰にでもできることを誰にもできないほど続ける”ことは簡単なことではありません。不可能スラブの全課題を、高齢かつ凡人である自分が登り切るには自分を信じて続けることしか前進する術はありませんでした。

これから不可能スラブにチャレンジされる方は、先入観を捨てて試行錯誤を継続してみて下さい。全てのホールドはいつか必ず持てるようになり、道は拓けます。

完登者にも悩みがあり、困難な道があった事を後述する不可能スラブ取り組みの軌跡から感じ取っていただければ幸甚です。

4.不可能スラブに求められるクライミングポジション

不可能スラブの課題は、カンテを保持れる伴奏者を除き、慣性モーメントをフィジカルで制圧できるような課題はなく、強い弱いという側面よりも、上手いか下手かが問われます。非力なクライマーでも、あるべきクライミングポジションを理解し、継続さえできれば完登は可能です。

全てのホールドが極めて悪いので、足中心のムーブ構築がベターです。ハンドホールドには頼れないと最初から割り切ったほうが無難です。フットホールドも良くはありませんが、傾斜が緩いのでスメアリングの技術を駆使すれば、体重の8割を足に担わせることが可能です。

足のテクニック(エッジング、スメアリング、スメッジング)をベースに正しいポジションを構築できるかが不可能スラブ完登の鍵となります。

ポジションとは姿勢やフォームのことではありません。256ヶ所ある関節を調整しながら重力が頭の先から足裏にかけて作用していることを意識できる場所のことを言います。この場所こそ、不要な運動エネルギーが発生しにくく(もしくは影響が少ない)、かつ効率的に作用反作用の力を発生させることができる場所で、クライマーが探求すべき“あるべき場所”と言えます。スポーツバイオメカニクス、もしくはキネティクスと呼ばれているスポーツ物理学の一種で、弊ジムではこの力学に沿って課題開発を行っています。

FIND YOUR BEST POSITION

綺麗なフォームでなくても、正体ガニ股のようなフォームでも、脇が開いていても、腰が引けていても、重力(体重)が頭の先から足裏にかけて正しく作用していれば問題ありません。

不可能スラブ全課題を登った自分も、フォームはお世辞にも綺麗なものではありません。他人から見ると崩れているようなフォームでもポジションが整っていればムーブを繰り出すこともあります。

身長、関節の柔軟性、重心の位置等が異なれば、ベストポジションは人それぞれ変わり、フォームも千差万別。関節の可動点が多く、作用点のパラメータが多いクライミングは、ゴルフのような正しいフォームというようなものは存在しません。重回帰分析や多変量解析を用いてもベストなフォームを定型化するのは難しい。

本稿で弊ジムが標榜しているポジションクライミングについて語ると長くなりますので、後日別稿にて改めてご説明できればと考えています。

不可能スラブの課題に求められるクライミングポジションについて一点だけ言及するのであれば、何をさておいても優先すべきポジションは、フットポジションとなります。 

頭痛2歩目のフットホールドのポジション(右足は赤点のガバ足ではなくセンターに寄せる)

可能な限り身体の中心に近いフットホールドを選ぶことで、ハンドホールドのトルクに頼らずに、脚力で身体のリフトアップが可能になります。身体の中心から遠い位置のフットホールドはガバ足でもご法度です。ハンドホールドが低トルクの不可能スラブでは、手に頼ることができない為、ワイドスタンスになればなるほどフットホールドに体重を載せることが難しくなり、スメアリングが効かなくなります。

踵の向き、踵の角度など基本的なスメアリングの知識と技術が既に備わっているクライマーであれば、悪い足でもセンターポジション優先が吉です。

フットポジションが定まれば、頭部から足先までの基軸が決まりますので、下半身・上半身のポジションを基軸に沿って構築しやすくなります。

5.課題紹介

課題ごとにキャラクターの違いがあり、繰り出すムーブも多彩で、様々なスラブ技術が求められます。不可能スラブの多彩なムーブをインストールできれば、クライミングの新しい扉が開くと思いますので、興味のある方はぜひトライしてみて下さい。

ルート概要を下記します。

不可能岩「スラブ面」

◆白(A)「伴奏者」V13 / 四段+
(薄氷レイバック)
◆赤(B)「頭痛」V13 / 四段+
(超絶スプーンカットスメア)
◆黒(C)「覚醒」V14 / 五段
(メンタルブレイク2点支持)
◆紫(D)「不眠症」V13/V14 四/五段
(ギャンブルデッド)
◆黄(E)「不可能病」V13/V14 四/五段
(クレージートラバース)

※未踏ライン:(C)と(D)の中間からフェイスを直上するライン(仮称”黒い川”)

不可能岩「マントル面」

◆緑(F)「静かの海」V9 / 二段(ウェルカムマントル)
◆青(G)「豊かの海」V12 / 四段(無慈悲なマントル)

6.全課題コンプリートまでの道程

取り組み当初は1ヶ月に1課題(4営業日/課題)と順調に進捗しましたが、覚醒のトライ中に負ってしまった怪我は想像以上に重く、怪我後は著しく滞ってしまい、全ての課題を完登するまで3年間という月日を費やしてしまいました。

2021年11月:「静かの海」完登
2021年12月:「伴奏者」完登
2022年1月:「頭痛」完登
2022年2月:「不眠症」完登
2022年4月:「不可能病」完登
2022年6月:「覚醒」ホールド精査中に負傷
(右膝半月板外縁部・内側側副靱帯損傷)
2022年7〜9月:リハビリ静養
2022年10月:「覚醒」トライ中に負傷
(左膝後十字靱帯損傷)
2022年11月〜2023年1月:リハビリ静養
2023年2月:「豊かの海」完登
2023年2月〜2024年2月:リハビリ(1年間静養)
膝の回復確認の目的で6月に頭痛試登
2024年5月:「覚醒」完登

※推奨時期:10月中旬〜1月中旬の3ヶ月推奨
       12月は異次元のフリクション
          覚醒は11月、もしくは12月トライ推奨
※積雪期:1月〜3月下旬
                  (降雪なければ登れるが低温時はスメア難易度アップ)
※エンクラ時期:5月〜9月(早朝もしくは夕方限定)

7.犯した三つの失策

◆失策①

2022年2月、不眠症完登後、1ヶ月休んでサーフィンに逃げてしまった事が犯した失策の1点目です。長野まで毎週通う苦痛に耐えられなくなったことに加え、スラブのクライミングに飽きてしまい、コンディション的に良好な3月を無駄にしてしまいました。3月に不可能病と覚醒を登っておけば怪我する事はなかったかもしれません。

不可能スラブの高難度課題は季節的な要因が大きく影響しますが、2022年度の時点では、3月がどれほど恵まれたコンディションか理解不足でした。

松葉杖生活を余儀なくされた夏

◆失策②

厳冬期に登れてしまったことで、夏季でも登れるんじゃないかと過信したことが2点目の失策です。

「覚醒もすぐ登れる。」
「どうせ登るなら完登記録のない夏に登ろう。」
「沢コンディションの方が面白いはず。」

救いようのない自惚でした。

不可能病完登後の5月も1ヶ月休んでサーフィンに逃げてしまった事を今更ながら後悔しています。

クライマー兼サーファーのお客様と一緒にサーフセッションを楽しむ日々→この後、悲劇が!

不可能病完登後、休まず覚醒に取り組んでいれば、苦戦はしたものの登れていたのではないかと今でも思っています。

覚醒のような高難度課題はベストシーズンである晩秋〜初冬に登る方がリスクは少ないことは言うまでもありませんが、5月はベストシーズンよりフリクションの低下は否めないものの、曇天日、および早朝であれば十分に勝負できます。

結局5月を無駄にし、湿度90%、気温30度超えの6月29日にトライしフォール。右膝負傷でスラブ課題に重要な脚力を失ってしまいました。初夏の覚醒の核心は、濡れたコンディションに絶対の自信を持っている自分の実力でも勝負になりませんでした。

◆失策③

怪我完治を待たずに治りかけで再フォール。

梅雨時に滑落をコントロールできずに右膝半月板と靭帯損傷をしてしまったのですが、左足一本でも着地はできるだろうと安易に判断し、治りかけで再参戦。案の定、左膝の負担増で靭帯損傷。

後の祭りですが、焦りは禁物。特に高齢クライマーは万全なフィジカルコンディションでない時は、ハイグレードの課題にチャレンジすべきではありませんでした。

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