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【連載】52Hz 最終回『くじらの叫び声』

「だから、僕はこの単行本のタイトルを『くじらの叫び声』にした」
「彼女が言っていたことを、そのまま拝借したのだ」
「もし、彼女が読書を続けていたなら、きっと、一度は手に取るだろう」

『くじらの叫び声』

勘のいい方は既にお気付きだと思うが、この連載そのものが『くじらの叫び声』を踏襲したものになっている。

『くじらの叫び声』は「本」にまつわる連載エッセイを単行本にしたもので、作者が読んで来た本と関連するエピソードを書いたものだ。実をいうと、そのエピソードとは…いや、ここでネタバラシをするのはやめよう。

表題の『くじらの叫び声』とは、第一回のエピソードからとられたもので、小川洋子の短編集『海』に登場する「鳴鱗琴」という架空の楽器の音を想像してみようとして、ある女性と海に行った時に登場した台詞だ。そして、その『くじらの叫び声』は、ある特別な意味を持って表題となっている。

メタ林崎ビーチ

この本からの連想では、まぁ、海岸に来るしかないだろう。こういう時はヒネらない方がいいということに、流石に昨年のPlatform第1号からなんだかんだと計10本以上エッセイを書いていればなんとなく分かってくる。多作…というより量産型になっていないかが目下の悩みだが、そういうこともこの海岸を見ながら考え直すいい機会かもしれない。


海を見ながら考えれば、この連載も最終回だと思うと、自然と反省モードになってしまう。正直、伝わっただろうか?だとか、そもそも「本」というテーマがnote連載向きじゃないんじゃないか?とか。目の前は開けた海なのに、全然気分が盛り上がってこない。最後の最後までこんな感じかよ、と自嘲する。


くじらの叫び声も聞こえてこなければ、「鳴鱗琴」の音もわからない。一緒にそれを待ってくれる人もここにはいない。でもまぁ、いいか。改めて自分と「本」とを向かい合わせながら、自分の内面を整理できたのだ。しかも、それがもしかして、読者の心に届いたら面白いじゃないか。


変な前向きさを覚えたところで、本連載の最後に向けて文章を練ることにした。


『』

〆になるはずなのだが、実は読者の皆さまに謝らなければならないことがある。
『くじらの叫び声』という本は存在しない。

いや、いや。待ってくれ。
全く存在しないわけではないのだ。

実を言うと、AAスレ…といって若い人に伝わるかわからないかもしれないが、アスキーアートを使ったインターネット文芸作品だと思ってもらってよい。そのAAスレの「やらない夫と真紅が、小説を読むようです」という作品があり、そこに出てくる作中作が『くじらの叫び声』なのだ。

元々、「やらない夫と真紅が、小説を読むようです」自体が、実在する小説を題材に取りながら話を進めていくので、冒頭に書いた説明は間違っていない。要するに、パク…いや、オマージュがこの連載なのだ。

そもそもこの連載自体が、「やらない夫と真紅が、小説を読むようです」を読み返して思いついたものであり、これ以前の第5回までで構成する予定だったのだ。

しかし、小説を選び、ワールドを選び、書く内容のプロットを立てている段階で、次第に「孤独感」「さみしさ」が中心軸としてあらわれ始めたところで、「思い出した」のであった。世界で最も孤独なクジラの話を。

そのクジラは52Hzのクジラとも言われている。クジラは通常30Hz前後で鳴くので、52Hzで鳴くクジラのその声は、どの同族にも届いてないものと推定されている。だから「孤独なクジラ」なのだ。

「孤独感」「さみしさ」をテーマとして、インターネットの片隅でエッセイを書くことは、世界で最も孤独なクジラの鳴き声のようなものだと思ったのだ。
同族には聞こえないそのクジラの叫び声は、しかし人間という別な種族にはしっかりと届いていた。言葉を介して交流することはできずとも、そのクジラのあずかり知らぬところではあるけれども、確かに52Hzの声は届いて、そうしてこのエッセイが生まれた。

「やらない夫と真紅が、小説を読むようです」に登場する『くじらの叫び声』は、ある特定の一人に向けた鳴き声だった。だがこのエッセイは、不特定の誰かに届くことを願って書かれたものだ。

私のこのエッセイは、メタバース住民にせよ、リアルワールドの住民にせよ、多くの同族には届かないだろう。内容も不格好で、弱い。「孤独感」や「さみしさ」がテーマのエッセイなんて読んで気が滅入るだろう。

それでも52Hzで鳴いてみようと思ったのだ。多くの同類からは無視されるだろうこの小さなエッセイが、どうか誰かの耳に届き、52Hzでの鳴き声を誰かがキャッチしてくれることを願って。

それではまた、鳴く時まで。(完)


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