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【連載】52Hz 第1回「グラスホッパー」

群れることで変わってしまう生物がいる。
群れることで狂暴になる生物がいる。
では大勢の人間が生きる大都会で人間は?

『グラスホッパー』

Platform編集長という肩書でエッセイを掲載してきたが、今回はnoteの連載記事を書くことになった。大体、私のエッセイはなんか意味深な凝った言い回しをして、後半で「ふと気づく」か「思い出した」で展開させて、イイ感じっぽく〆ようとしてしまう。これでは一生執筆力があがらないので、この連載ではふと気づかず、思い出さずに書いていきたいと思っている。

さて、冒頭から縛りを課したところで、本連載『52Hz』は私が読んできた本の話を軸に、その本からイメージされるワールドを歩くというものだ。あらすじは必要なこと以外は記載しないことにする。それは、気になったら元の本を読んでほしいからだ。

まず取り上げたいのは、伊坂幸太郎『グラスホッパー』だ。

この『グラスホッパー』で一番印象に残るフレーズは多分「ジャック・クリスピンいわく、死んでるみたいに生きたくない」なのだが、私の頭に強く響いたのは「群生相」に関する説明だ。

「群生相」。これは、バッタの一種であるサバクトビバッタが変異した姿のことである。普通は「孤独相」という単体で生息するおとなしい状態でいるのだが、面積に比して一定の数以上にサバクトビバッタが増えてしまうと次第に体が変化していき、狂暴に、いわゆる「イナゴの大群」となってあらゆるものを喰らいつくす、飢餓の権化のような生態に変異するのだ。この、狂暴に変異した状態のことを「群生相」という。

この『グラスホッパー』は三人の殺しを中心として展開される群像劇なのだが、ある殺し屋が、人間は増えすぎて、群生相になっているのではないか、というシーンがある。表題がバッタであることから、これが本書のテーマであるといえるだろう。

確かに、今、特に都会では人間が多すぎるかもしれない。東京の盛り場ー新宿・渋谷・池袋・その他諸々ーでは、どこから湧いたのかと思うくらい人がいる。

本連載を始めるにあたり、改めて『グラスホッパー』を読み返した私は、人を避けつつ都会を歩く、という無茶が出来ないかを考え、そしてメタバースでなら一人で都会を楽しめるのではないか、と考えた。そう、一人だけで大都会を満喫してみよう!と。

ワールド:Vket3 NeoShibuya-Day ネオ渋谷-Day

そういうわけでやって来たのは、Vketでおなじみの場所となっている、ネオ渋谷である。リアルだったら人でごった返している渋谷も、メタバース上では適切に設定すれば独り占めできる!誰に気兼ねすることもなく歩けるのだ。


異様な大きさのバーチャルハチ公前で写真を撮影し、グルグルと歩き回る。もう大分古くなってしまった出店ブースを見てまわる。


快適だ…。ビルを独り占めし、リアルワールドならどんな時間でも人が乗っている電車を、まるで田舎の単線電車であるかのように独り占めし、町全体を独り占めする。他にだれもいないし、壁の薄さを気にしてmutalkを装着して、歌でも一つ歌いながら渋谷の街をねり歩く。


ここにあるのは「解放感」だ。リアルワールドでの物理的な接触、メタバース上でも他の人と居ることの心理的な接触、その両者から解放されている。


とはいえ、流石にずっと一人でここを歩くのも飽きてきてしまった。解放感を覚えつつも、「やっぱりこの解放感はスゲーよな!」という人が一人ぐらいいてもいいかもしれない。

『グラスホッパー』

普通ならおとなしいサバクトビバッタがなぜ「群生相」になるのか。これはまだ明らかではないらしい。だが、群れて物理的な接触が増えることでなんらかの影響が発生しているのが原因であるという説があるそうだ。

群れでいることが原因ならば、確かに『グラスホッパー』で言われているように、人間も「群生相」になっているのかもしれない。しかし、同書ではある「接触」が意味を持ったように、あるいは今回パラリアル渋谷を独り占めしたときに少しだけ寂しさを感じたように、孤独相には孤独相なりに、まったく一人きりの孤独ではありたくないのかもしれない。

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