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愛を教えてくれた、桃のこと

スーパーの店頭に桃が並ぶ季節になった。うやうやしくこちらを見つめるピンクと白のグラデーションの丸。私の一番好きな果物だ。

実家で暮らしていた頃、この季節になるとたまに母が食後に桃を剥いてくれた。ひとつの桃を母と弟とわたしの3人で分ける。美味しい水々しい果肉部分は弟とわたしに同じくらいの量だけ。母は種の周りについた果肉の部分。

小さい頃は、母も同じくらいだけ桃の取り分があるように見えていたけれど、わたしが桃の種の大きさを知ると同時に、母だって好きなはずの桃をほんの少ししか食べられていないことを知った。そんな母にわたしが自分の分を分けてあげ、思いやりを発揮していたら美談だったろうが、実際のわたしは自らの取り分が減らないように何も言わなかった。わたしは昔から食い意地が張っていて、食べ物は少しでも多そうな方を、少しでも美味しそうな方を自分の取り分とするのがポリシーであった。誰かに自分より良い食べ物を渡すという行いが、さっぱりわからなかった。

そんな考えが変わったのは、自分が恋をするようになってからだと思う。

高校生の時に彼氏ができて、一緒にピクニックに行く約束をし、お弁当を手作りした。卵焼きの少しでも綺麗に巻けている部分を、彼に必死に勧めた記憶がある。自分の料理の腕について、少しでも見栄を張りたいと思ったのだろうけど、何より彼に喜んで欲しかった。好きな人と一緒だと、外食をしても、ピザの一番ちょうどよく具材が載っていて焼き加減の良い一切れを、肉だったら赤身と脂身のバランスが絶妙な部分を、彼に食べて欲しいと思うようになった。好きな人が嬉しいのが、わたしも嬉しい。普段は自分が満たされることばかり考えているようなわたしが、他人に自分よりも美味しい思いをして欲しい、幸せであって欲しい、という気持ちを持てることに少し驚く。好きでたまらないってこういうことなのか、と。


わたしの家族にはもう一人、問題児の父がいる。そのせいで母はどうやらたくん悲しい思いをしてきたということを、わたしは大人になってから知った。初めて聞いたときは、まだ幼いわたしや弟がいたせいで母はその状況から逃げられなかったんじゃないかと、少し自分の存在を呪ったりもした。でも母が不幸だったのかというと、そうは言い切れないと思っている。なぜかというと、わたしがややこしい家族の問題を経て、自然とこう思ったからだ。

母がこれから生きていく先に、もう何ひとつ悲しいことが起こらないといいな。例え自分が一生会えなくなったとしても、母が幸せで、笑顔で生きていてくれるなら、それがいいな。

この思いを自覚したとき、寂しい気持ちとあたたかい気持ちが一緒にぐちゃぐちゃになって、涙としてあふれた。そして、母の気持ちが少しわかった気がした。何も知らずに無邪気にしている弟やわたしの姿が、母の幸せだったのかもしれない。その証拠が、いつもいつも桃の一番美味しい部分を私たちに分けてくれたことだったんじゃないか。

家族の問題は、どこか自分と地続きに思えていた親の存在に「他者」の輪郭を与えてくれた。父と母はわたしの親である前に、一人の不完全な人間、他者なのだと。そうしてはじめて、わたしは人を愛しく思うとはどんな感情なのか、少しだけ知れた気がする。他者になることで、はじめて。

好きでしょうがないとか愛するとかいう気持ちは、その人にだったら自分の大切なもの全てあげたっていいという、自己犠牲がつきまとうものなんじゃないかと幼心には捉えていた。けれど、今それは少し違うと思う。自分がどう関わっているかは問題ではなく、相手が幸せであることそのものが、自分にとっての幸せだと感じられることが、きっと大事。でも、そう思う前提には、自分の延長ではなく他者として相手を認識して向き合うことが必要そうだ。

それは文字にしてみると当たり前のようなのに、なかなか難しい。どんなに尊重し合えていると思えていた相手にだって、いつの間に掛け違えたのか「どうしてわたしが幸せと思うことをしてくれないの?」と、自分のコントロール可能なもののように期待してしまうことだって往往にしてある。

どんな状態なら愛しているのか、愛されているのか、いつもわからなくなる。

* * *

自分が一人暮らしをするようになって、果物がなかなか贅沢品なのだと実感することになった。それでも、好物の桃はなんだかんだ理由をつけて買ってしまう。自分で剥いてみると、りんごやなんかと違って均等に分けるのが難しい。そしてわたしは結局、桃に丸ごとかじりついたりもする。毎日そうやって独り占めして食べることだってできる。なんて贅沢なんだ。

でもそれは、「今日の桃はちょっと固かったね」とか、「これは特別甘くて美味しいね」とか、言い合う相手がいなくなったということでもあって、少しさみしい。でも、桃を食べると、わたしはちゃんと愛されていたのだという感触がどこかから呼び起こされるような気がする。だからきっと、桃はわたしにとって特別なのだろう。愛するとか愛されるとか、そんな大切な気持ちの種を思い出させてくれるから。

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