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海外美大生の絵はヘッタクソ?【ウィーン美術アカデミーの芸祭2023レポート】

芸祭(Rundgang)について

日本の美大や芸大で言うところの「芸祭」を、ドイツ語圏美大では「Rundgang」や「Jahresausstellung」などといいます。制作アトリエの開放(いわゆるオープンスタジオ)やあらゆる展示などを大規模に行う、年に一度の催し物です。僕の通うウィーン美術アカデミーでは、2023年1月19日(木)〜2023年1月22日(日)に「Rundgang2023」がアカデミー各校舎で行われました。この記事では、その模様を日本の芸祭や美術の状況などと照らし合わせながら記してみたいと思います。(公式HPはこちらから

※ぼくは絵画が専門なので、主に絵画を中心に取り上げたいと思います。

ウィーン市内で掲示されているRundgangのポスター。

ぼくについて

長澤太一、2002年北海道生まれ、東京都江東区深川の下町育ち。東京都立総合芸術高校美術科油画専攻在学中に、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」炎上やそれを取り囲む美術業界の構造、美大教育等への違和感を覚え、それまで志していた東京芸大油画受験を辞め、高校卒業後1年間の進学準備を経て、2022年10月からオーストリア国立ウィーン美術アカデミー美術学部抽象絵画科に進学、現在在学中です。(HPはこちらから

↓受験についてはこちらの記事で書いています。(この記事のおわりに再度貼ります。)

芸祭の話の前に、日本の美大との違いを少し…

ヒトラーが落ちた美大・ウィーン美術アカデミー(2022年9月)

たとえば、ウィーン美術アカデミーには形式上「具象絵画科(Gegenständliche Malerei)」というものがありますが、これを聞くと「具象絵画しか描いちゃいけないのか!」となってしまいます。しかし、実際は全くそんなことはありません。ぼくは抽象絵画科にいますが、抽象画を描いてる人は半分くらいしかいないし、後述のErweiterter malerischer Raum(日本語で無理やり直訳すると、「拡張された絵画空間科」)なんて学生も教授もその科の名前についてよくわかっていないと聞いたことがあります。あまりにも科の名称が意味をもたないので、正式名称が必要なオフィシャルな場でない限り、ぼくは誤解を避けるために「絵画科」と言うようにしています。

そもそもドイツ語圏の美大では、日本の美大のように「絵画科日本画専攻に入学したから岩絵具を〜」とか、「彫刻科に入学したから木彫を〜」なんてことはしません。(というか(日本の)美大の専攻をメディウムで分けるのいい加減やめませんか?まぁ、やめられない社会構造があるんでしょうけど。)基本的には、学びたい教授のいる教室を調べて受験して入学して、その教授のいる制作環境を得て、そこで制作するというだけです。

アカデミーのぼくの制作スペース(あえて狭くしています。理由は後ほど。)
ウィーンは欧州の中でもまだ晴れるほうなので朝が気持ち良い(こともある(笑))。

大学によるとは思いますが、ウィーン美術アカデミーの場合はロンドン芸術大学などをはじめとする欧州圏の美大全体でよく見られる「放任型」スタイルです。24時間365日自由に使える(校舎によっては23時で閉まったりするけど)アトリエを提供されて、そこで自由に制作をする。教授が週に1回(教授によっては半年に2〜3回など)クラスミーティングをしたり、その後クラスを回って「何か質問とかはある?」と聞いて回って質問する機会があったりというくらいで、教授が積極的に制作に介入してくることはありません。(教授のスタイルによっては介入してくることもあるかもしれませんが。)

アトリエにはキッチン、冷蔵庫、電子レンジや食器があることもあります。(上は作品収納庫)

自由制作とは別に、ヌードデッサン、技法材料、テクニック、版画、写真、批評や美術史などの授業を履修することもできます。履修しなくてもビザの更新に必要な分だけの単位はもらえますが、卒業するには一定の履修が必要です。最短4年で卒業ができますが、卒業年限を平均すると5.5年になるらしく、10年アカデミーに居座り続ける者や40歳を超えている学生も居ます。(居座り続けて活動をアカデミーに担保することは、作品を作る上でも不健全だと思うのでぼくはあまり良く思ってないです。)正確な学生の平均年齢はわかりませんが、体感では26歳前後ではないかなと思います。ぼくのように18〜19歳で入学する人も一定数いますが、あまり多くはないです。日本からのドイツ語圏美大は、日本の美大卒業後に進学するケースが多いように思います。全体的に見ても社会人経験者、学部卒業者が多い印象です。

具象絵画科(Gegenständliche Malerei

こう書くとややこしいので、「絵画科」のつもりで本稿を読んでください。

具象絵画科の展示。

具象絵画のクラスは、Rundgangの前から活発なイメージがあり(具体的にはInstagramのクラスアカウントの運用をしっかりやっていたり、展示に向けたプランニングをクラス全体できっちりやっている等)注目していたのですが、蓋を開けてみると、一人一人の作品は稚拙なものも多く、陳腐な表現で溢れかえっていたというのが第一印象です。日本の美大の場合は最低限の基礎を身につけた上で美大に入学しているので、表現が稚拙でも表面的な技術力でこれを覆い隠すことができるわけですが、ウィーン美術アカデミーの入試ではこの技術力を軸に合否を決めているわけではないので、何にも覆い隠せれていないただの酷い絵を大公開してしまっている感じです。(とはいえ、日本の美大では技術で隠し通すゆえに自らの問題に自覚的になれないという、より複雑な状況に陥ることも多いので、問題点を探し出しやすいと言う意味ではアカデミーの方が教育機関としての機能は果たしているかもしれません。)

もちろん単純に表現が稚拙な作品ばかりというわけではありません。むしろ、作品の表面的なクオリティは一定程度あるものもそれなりにはありました。しかし、それらは筆致に方法論を作ることで絵画制作をある程度、反復可能なものにカスタマイズしている傾向がありました。美大がアートマーケットの一端を担っているのは、日本と変わらずウィーン美術アカデミーも同じで、その構造を意識して戦略的に作品をカスタマイズしているのならまだしも、「え?私アートマーケットなんて興味ないですけド?😅」みたいな顔をしながら、ちゃっかり自分の作品を肯定化する無限ループ理論(例えば「アートは痕跡である!」など)を作り上げてブランディングし、文脈で自分の絵を必死に守ろうとしている態度を感じる作品が多く散見されたりと。日本でも同じ現象が起きているとは思いますが、日本より表現が素直であるが故に、これがわかりやすく絵に出ているのです。ぼくはこの現象を批判することはしません。しかし今日において、それがアートの主語になっているこの潮流を無責任にありがたがっていいわけがないというふうには思ってます。

つづいて、気になった作品を少し挙げてみることとします。

具象絵画クラスの作品

たとえばこちらの絵。日本の美術教育を受けてきた身としては、画面の作り方は完全に破綻していて(手前側と奥のレイヤーの明度調整ができてない、光源設定が甘い、見どころがわからない、そもそも構図が甘い、プロポーションが…等)言い出せばキリがないのですが、でもなぜこういう絵になってしまうのか考えてみる必要があると思いました。

日本の美大受験絵画あるいはカルチャー教室などで油絵を描くとき、エスキースを取ったり、キャンバス全体に手を入れることを指導されると思います。これはキャンバスのサイズが持つスケール感を描く段階から自覚的になることを目的としていて、それによって、先ほどぼくが指摘したような絵の破綻を防ぐことにもつながるわけです。

全体的にアタリや構図が取れたら、今度は空間のレイヤーを想定し計算しながら絵を描いていきます。このとき、絵は全体的に広く段々と仕上がっていきます。しかしながら、アトリエで同級生が絵を描いているところや、前に挙げた絵から見える筆致をみると、部分的に描くことの集積、すなわち「手の部分を細密に描いた→次は足を細密に描く→お腹を細密に描く」という順番で描いているのです。このとき、絵画の仕上がり方はキャンバスにおいてまったく空白の部分と緻密に書き込んでいる部分で二極化します。

この二極化の原因は、キャンバスと作家の距離の近さにも起因するように思います。日本の美大受験絵画ではある程度描いたら「画面から離れて見てみる」ことが鉄則です。これは、細部を描きすぎることでキャンバスを俯瞰した時に構成がアンバランスになっていないか確認するための行為ですが、おそらくウィーンで見た数々の現象の中で、これはほとんど発生していないのです。したがって、画面全体を俯瞰できていない絵画が出来上がると言えばそうなのですが、逆にそこには「俯瞰しない」ことによって生まれる新たな可能性があるとも捉えられるわけです。

Jannis Varelasの個展、Gallery Krinzingerにて。(2022年9月)

例えばこちらは、ウィーンのコマーシャル・ギャラリー、Gallery Krinzingerで2022年9月に見たJannis Varelasというアメリカの作家の作品です。ジーンズに服、シワまで丹念によく描写されています。しかし、よく見ると若干違うパースペクティヴにそれぞれの要素が置かれているようにも見えて、寄って見てみると、筆致から推察するに「ズボン描く⇨服描く」みたいな順番で絵を作っていたわけです。このパースペクティヴのズレを良しと言うことも悪しということもぼくはしませんが、いずれにせよこの描き方は日本国外においては美大やマーケットのシーンのレベルでもそれなりに見られる傾向のように見えました。

好きではないけど、具象絵画のクラスの中ではまだおもしろい方かなと思ったので最後に載せておきます。

抽象絵画科(Abstrakte Malerei

こちらは僕の所属する抽象絵画のクラスです。全体的に具象絵画のクラスより元気がないですが、それでも面白さを感じる作品は多く感じました。(ちなみに抽象絵画のアトリエは3つあり、自分のアトリエ以外の作品・作家を見るのは今回が初めてだったので客観的に見れていると思います。)

抽象絵画クラスの作品

たとえばこちらの絵。先ほどと同じく、構図が良い絵であるかと言われたらそんなことはありません。しかし、絵を作る上での方法論がある程度壊れつつあるように見えて、その綻びを色彩感覚で埋めようと奮闘しているプロセスを筆致で感じました。(引きの画像だと伝わらないのですが。)

どう描いたのかが、どんどんわからなくなってきているのがこの絵の魅力だと思います。結果的にどうせどう描いたかわからないようにするから最初から雑でいいや!という怠惰な態度で描いた絵は見ればわかってしまうわけですが、この絵はそのプロセスにおいて繊細さと壊すことの反復を長い時間軸の中で駆け引きしているようで、真摯な態度を感じたわけです。このような絵は強度もまだあまり高くないことを抜きにしてもマーケットでは売れないかもしれませんが、既存のマーケットでなくても、独自で経済圏を獲得して回すという営みがあったっていいじゃないかとぼくは思っているので、その意味では可能性があってほしいなと感じる一枚でした。

続いてはぼくの作品を…いや、人は自分で自分の顔をみることができないように、僕は自分のことがわかんないんですよね。他者には興味あるけど自分にはとことん興味ない人間なもので。他者が見る自分には興味がある(それは他者を見ることだから)ので、ここでは自分の作品を載せようと思います。

右側の段ボールで囲まれた場所がぼくのスペースです。

ぼくは今回はアトリエ開放(俗に言うオープンスタジオ)でしか作品を出していません。Rundgangに向けて皆アトリエを片付け、あたかもアートフェアのように展示スペースを構成し、白壁を塗り直し始めていましたが、ぼくはひとまずいつもの状態をできる限り見せようと思い、防犯対策をした上で下のように展示空間を構成しました。作品は、ドローイング以外はまだ未完だったのですが、そのまま出しました。

内部

ぼくは普段から段ボールで作業スペースを区切って、あえてスペースを狭くしています。これはなぜかと言うと、アカデミーを卒業した後の作業場所の狭さを想定しているからです。日本の美大でも、海外の美大でも、多少の差はあれど学生は家よりは大きな制作スペースを確保することができます。ぼくも総芸時代は100号や150号の作品を描いていました。しかし、100号や150号の作品を描こう!という発想は、果たして美大などに行かずに普通の生活を送っていたら生まれたものでしょうか?

この発想は美大(や総芸)に進学したために生まれるものだと思います。つまり、美大という環境に無意識のうちに作品のスケールを矯正されているわけです。そして、美大を卒業した後に待つアートマーケットなどでもやはり、大きな作品は重宝されます。ぼくは、美大という絵を描く「特権的な環境」をもらったことに自覚的になって、自分の作品が持つスケール感に責任を持つことが大切だと思いました。

ぼくはいうまでもなくお金がありません。卒業後に大きなアトリエを構えるなんて無理だし、仮にできたとしてもそのスケールで作品をつくることはもはや職業画家的で、普遍的な日常生活からは程遠いものへと変貌することは明白です。この普遍的な生活の感覚を維持し続けることは、ぼくが表現をする上でもとても大切なことになっていて欠かせません。そのためぼくは、スペースを段ボールで区切って狭くし、自分の作品のスケール感に責任を持とうと試みているわけです。

まだ未完です。そもそも完成とは何だろうか。

すべての作品を説明するとキリがないのでこの絵だけ。ぼくは昔からJRの発車メロディーを聞くことが好きで、今でも頻繁にYouTubeで聞いたりするのですが、その中でもJR北千住駅3番線の「常磐3−1」という発車メロディーとその音が反響するノイズがなんとなく好きでした。のでそれを聴きながら絵を描く、つまりはJR北千住駅のイメージを最初は描いていました。

しかし、この絵の支持体はキャンバスではなく発泡スチロールにいらない紙で補強したものだったので(素材にコンセプトがあるわけではないです。単に金がないだけです。)変な模様や凸凹が浮き上がってきたわけです。

ぼくは絵を描く時、意識的に絵を描くターム(◯◯を描くぞ!みたいな)と無意識をもとに絵を描くタームを反復することに重点を置いているので、絵の方針をここで転換し、浮き上がった模様や凸凹をもとに絵を構成しては壊し、構成しては壊し、ということを繰り返しました。そしてたまに思い出したかのように北千住のイメージで描き直してみたり。そんなことをやっていてできたのがこの絵です。

このように、ぼくは絵が生まれるまでの過程を説明することはできますが(事実なので)、この絵がもつ寓意や意味、コンセプトを説明しろと言われても何も言えません。なぜならそれはぼくが言えることではないからです。

今日の美術教育では、講評会で説明を求めるがゆえに、思ってもいないとっつきやすいハリボテのコンセプトを作品に貼り付けてプレゼンするという現象が結構起こっているのではないかと思います。作品について話す機会は必要ですが、それは必ずしもコンセプトを説明させる形式が合っているとは限らないはずです。なぜなら講評とは、作家(学生)の作る目的とその手段や形式、結果を確認する営みのはずですから。

拡張された絵画空間科(Erweiterter malerischer Raum

原文でも意味がわからない名前です。よくわかりません。この科は本校舎から歩いて5分ちょっとのところにある別の校舎(アトリエハウス)での展示になります。普段も同じところで制作しています。

結構広い。ボロい。
昔は演劇場や造船場だったとか。本当かどうかは知らない。


でけえなぁ、、

ちなみにこのクラスの教授はダニエル・リヒター。日本でリヒターといえば、ゲルハルト・リヒターになってしまうけどダニエル・リヒターも相当有名な人です。忙しいのでこまめにアカデミーに来てくれるわけではないようですが。

韓国から学びに来ている学生の作品。面白かった。

最近東京芸大とかでよく見るこういうテクスチャの絵画、日本だけでなくこっちでも結構流行っているのかもなーと思ったりしました。このように、「海外美大生の絵はヘッタクソ!?」とかいいつつもテクニックがある学生は全然あります。ただ、入学時はそこで評価していないので、人によりけりということになります。

彫刻科(Bildhauerei | Raumstrategien

これは日本の彫刻科のイメージで見るとびっくりするかもしれません。

彫刻校舎にて

写真を撮り忘れたのでこの一枚しかないのですが、まず見た限りでは日本の美大彫刻科のようにバリバリ木彫や金工などをやっている人は一人もいませんでした。インスタレーション科と一緒になっている専攻もあって、インスタレーションや単に立体作品というものがほとんどを占めていました。

作品を挙げようと思ったんですが、日本よりも作品の説明を置いている人や、SNSや連絡先を置いている人はほとんどいないので、その作品のコンセプトや意図はわからずじまいというものがほとんどでした。これは、Rundgangにおけるどの専攻の展示にも言えることでした。SNSを掲載している人はざっと見て全体の3割くらい。説明や文章を載せている人は全体の1%程度だと思います。(ぼくは載せましたが、、)説明が不要かどうかというのは作品の性質によって大きく変わってくるとは思いつつも、ここまで極端に無いとあれは文化の違いだったのかな、、と思わない気もしません。

それもあって、見やすい展示であったかと言われたら、そんなことはなかったように思います。特に彫刻科に関しては。ちなみに彫刻はPraterの方に別の校舎があって、完全に分かれています。(ウィーン美術アカデミーは校舎が5つに分かれています。うち3つが実技系。)

そのほかの科

他にもグラフィックと版画のクラス(Grafik und druckgrafische Techniken

台湾からの留学生の作品。作品に一目惚れした。Rundgangで見た中で一番好きだった。

コンテキスチュアル・ペインティング科(Kontextuelle Malerei)やコンセプチュアル・アート科(Konzeptuelle Kunst

アトリエ開放(アトリエはかっこいいと思った。)
アトリエ開放
アトリエ開放

パフォーマンス・アート科(Performative Kunst

全体図
寝るパフォーマンス。コンセプトは記載がなかった。

ぼくは絵画中心に取り上げましたが、この他にもいろんな科が多数あります。ちなみに絵画のクラスでは「ドローイングクラス(Zeichnen)」がぼくが挙げた以外にはありますが、なぜか写真を全く撮っていなかったので紹介なしです。本当にすみません。他の専攻についてくわしくはウィーン美術アカデミーのHPを見てください。

編集後記

ウィーン美術アカデミーのRundgang(学祭)を取り上げましたが、アカデミー側がオークションを主催したり、学生の作品販売の仲介をやったりと結構マーケットのにおいを感じる催し物でもありました。かくいうぼくも作品を買いたいという連絡をいくつか頂きましたし…(ぼくはまだ作品を売ることに抵抗があって、整理がついてないのでお断りしました。作品を売ることがどういうことであるのか意見交換をしたいです。決して作品販売が悪だ!と思っているわけでは無いので。勉強したい。)

ただ今日では、美術の価値を実存ではなくて概念に置くことが多いと思います。(例えば、この絵はウクライナの戦争への祈りなんだ!震災アートだ!など)その方が資産価値になるわけです。しかし、作家の視点からしたら突然現れた購入者が価値を実存に担保しているのか、概念に担保しているのかなんてことはわかりません。突然現れた赤の他人ですから。

概念で作品をブランディングすることは、まさに投資しろと言わんばかりの構図なわけで、これをハナから明言しタスクを実行する分には(村上隆がやったように)良いと思いますが、ブランディングを内面化、たとえば戦争や災害をネタに自己表現を勝手に作品のヒロインに仕立て上げてブランディングし、ちゃっかり儲ける系の作家が多いのはちょっといかがなものかと思うわけです。

しかし本当は、そんなことより一番問題なのは、今ぼくがこのように言ってしまっているように日本中、いや、もしかしたら世界中のあらゆる場所で適当な「芸術とは○○だ!」的な放言やお気持ち表明が乱発し、それぞれがそのポジションニングや影響を自覚しくくなってしまっていることにあると思います。その意味で、日本全国に広がる団体展や画壇、コマーシャル・ギャラリーはもちろんのこと、公民館のカルチャー教室、小中学生の図工や美術の作品から(他にもぼくが捕捉できない美術はあるはず)参画できる民主主義のシステム(それは「選挙」をやるということではなく、現象とそのスケールを把握すること)をアートに導入して、その分布や勢力を客観的にみることが大切だと思います。たとえば、現代アートにおいて絵画は弱いように見えるが、日本の人口総数の中でインスタレーションをやる人と絵を描く人を比較すれば後者の方が人数が多いのは明白であるということであったりと。

いずれにしてもぼくは、誰しもがもつ権力や責任にいかに自覚的になって、作品のもつスケールやそれによって生じる経済圏を把握し、実行するのかということが求められていることかと思います。2023年はこれを踏まえた企画展示を、夏に東京において数本検討中です。

また、今度ぼくは2月中旬に行われる、奈良美智やヨーゼフ・ボイス、ゲルハルト・リヒターなどを輩出したデュッセルドルフ芸術アカデミーのRundgang(学祭)に行く予定なので、もし時間と需要があればその様子も書くかもしれません。そのときはまた見ていただけると嬉しいです。

追記

自分が普段考えてることを文章に自分で書き起こそうとすると、寿命が先にきてしまいそうなので話を聞いてまとめてくれる人がいたりすると嬉しいなと思ったりしています。つまり、仕事が欲しいということです。ご連絡は以下まで。(もしくは各種SNSのDMでも。)

メール:nagasawataichi.art(アット)gmail.com
※(アット)を@に変えてください。

↓ ウィーン美術アカデミーの受験についての記事


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