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【短編小説】ウヰスキーの女(ユウコの日々シリーズ)

「隣の芝生は青く見える」

無意識と意識の間から紡がれた声が、金曜日の喧騒の中で瞬く間にもみくちゃにされたのをみて、ユウコはハァとため息を吐いた。

肩に食い込んだショルダーバックに気が滅入ると感じたのは、いったい何年前の話だったか。

もはやお友達になっている肩こりと人間の特権ともいえる慣れで、痛みなんて感じなくなっている。

金曜日の夕方。誰もが浮足立って職場から居酒屋か家に向かう時刻。

ふと、百貨店の煌びやかな内側を惜しげもなくひけらかすウィンドウに映った味気ない女が、じろりとこちら側を睨んだ。

あぁ、なんてつまらなそうな顔。化粧っ気のないこの顔は、その気になれば美人にでも化けるのかもしれない。

そこそこ線が緩みにくい体躯をある程度の洋服に包めば、私も魅力的な女になるのかもしれない。

やりがいがなくはない仕事に就いたのは二年前。

モチベーションはあるような、ないような。

この「モチベーションが下がる」という言葉自体、前職の同僚から聞いた愚痴の受け売りである。

「モチベーション」、そんなものが世の中にあったんだっけ。

情熱とは無縁、中途半端と仲良しで大人になったユウコには、その言葉が完璧な外国語に聞こえた。自分の内側には存在しない言葉。

しかも、それが「下がる」というのが、なおさら驚く。考えたこともなかったのだ。下がるも何もなく、「そういうものだ」と思って過ごし続けた「大人」だった。

「興味がない」ということは、ここまで致命的に他人と自分を分かち合えないものらしい。

「女らしく」—―興味がない。

「モチベーション」—―興味がない。

「やる気」—―落ちてたら、拾いたい。

要するに10万円が入った財布を拾う様なものだ。女らしさも、可愛げも、格好良さも、やる気も。現実にありそうに見せかけて、ほとんどお目にかからない代物。

ユウコの周囲は現実味があるような、ないようなものばかり。

だから、最初の言葉に帰結する。

「—――隣の芝生は青く見える……」

呟いた声は、思っているよりも疲れていない。

ただ、べそをかいてもお菓子を買ってもらえなかった子が家で親に「おかし……」と漏らす様な、もうどうしようもないことを諦めきれない寂しさが滲んでいる。

そう。私は。

寂しいと思っている……らしい。

・ ・ ・

置き忘れたものを想う。

ただ、「あぁ、これはいらないな」と思うと、枝を折るような気軽さで自分の心の一部を捨てる狂気が、私にはあった。

初恋の人がいた。とても仲のいい男友達。

彼が自分以外の女の子と仲良くしゃべっている。別になんてことはない風景。

それを見て「私を見てよ」と思った。

恨みがましい声は自分のものに間違いなく、頭の中でもう一人の私が「うげ」と苦い顔。

今、なんて言ったの私。

自分の内側がべっとりとした墨色に塗りつぶされた心地。

本で読んだだけ、知識だけだったはずの感情—――これが、嫉妬。

背筋が凍った。肝が冷えた。これは、まずいと条件反射で考えた。

こんな感情が、自分の内側にあるなんて知らない。

誰かを独占したいと思うなんて個人的極まる感情、彼は誰のものでもないのに、それを自分の想う通りにしたいという暴挙の想い。

「いらないな、これ」

自分に制御できないものは、要らない。

そこで、ぽっきりと「初恋」を捨てた。

共に居るときに楽しいという想いを捨て、共に居る時間の暖かい情景を捨て、彼への思慕を捨てた。

彼は何も知らないだろう。

関係は仲のいい友人のままで学校を卒業し、成人して時折lineをして酒を共に飲むようになった今でさえ、彼に恋していたという気配を微塵も出さなかった自信がある。

恋愛に恋する年頃の私に、そんな横暴極まるスパイスは要らない―――でも。

あの時、もし、捨てないでいたら。

「誰」になっていたんだろうと、時々思い出す。

きっと、今の「男性」が入り混じった自分とは、少しだけ違う「女」になったんじゃないかと夢を見る。

普通に恋をして、誰かに憧れる自分と上手に付き合っていける女の比率が高い私に。

考えても、「彼女」はもう帰らない。

切り落とした枝はすでに固い傷口の後だけ残し、それとは別の部分に、代償のように何かを生やしている。

・ ・ ・

金曜日の夜。

家呑みこそ至上と信奉する私でも、まぁ店に行きたい日だってある。

女がふらりと入ってもよさそうなバーというのが、実のところあまりないので、基本的には一度思い切って入って以来、行きつけになった店に入る。

ウィスキーが好き。

カウンターに置かれたグラスから立ち上る薫り高い香りが、「普通」に雁字搦めにされた体と心をふわりと解してくれるのを感じる。

初恋だけではない。今までの人生でたくさん切り離し、置いていったものの代わりに、洞となった内側に入れたもの。

時間と共に熟成され、ユウコの自己を作り出した時間と同じ年月を自らの熟成にのみ捧げてきた飲み物に、優しく触れられ、刺激されていく。

誰かと同じでいたくないと願った。多分、あれは生まれ持った本能だった。

がむしゃらに自分を探し、律し、切り捨て、見つからず途方に暮れる。

自分が絶望的に空っぽだと思い知ったのはいつだったっけ。

「中に何かを入れなければ」

なんでも、何でも、入れていった。

心が感じるまま、望むまま。躓いて転んでも、とんでもない目に合っても、ただただがむしゃらに。

この経験が、ユウコを「普通」から少しずらしている。

中途半端と仲良しで、仕事のために長年かけて作り上げた外面は見事なまでに外面で、恥部と呼んでもいい混沌で形作られている内側に、そうそう簡単に誰かを入れない。

まったく。こんな有様で他の人を見て「寂しい」なんて言うのは、ちょっと狡いね。

カラン。いいじゃないのさ。

美しい琥珀色が、答えるように氷を崩す。涼やかな音は、ユウコの口元を少しだけ緩ませた。

この混沌とした内側を「自分らしさ」と呼ぶのは、あまりにも後ろめたい。

けれども、ここでカウンターに座ってグラスを傾けるユウコは、どうしようもなく「私」で。

「……お仲間ね、私達」

チン、と指で軽くグラスを弾く。

遊ばれるように、ゆらりと揺らぐ琥珀色。

10年以上の歳月、熟成して日の元に出ることを、樽の中でただただ待ち続ける忍耐と、作り主の深い愛情が注ぎ込まれた飲み物。

ウイスキーが好き。

結局はね―――。

隣の芝生は青く見えるけれど、振り返った自分の芝生もまた、他人とは引けを取らないくらい青いのよ。

野草がゆらゆらと初夏の風に遊ぶ様子を見ながら、ユウコは自分が夢の中にいる自覚を持ち、困ったなぁと微笑んだ。

今日は少し、調子に乗って飲みすぎたようだ。


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