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私は、森を補填する人間なのだ。そうやってしか、生きていけない人間なんだと思い知った話

以前、こんな記事を上げたことがある。

ここから再び、この言葉を引用しよう。梨木香歩さんの、『エストニア紀行』より。

人が森に在るときは、森もまた人に在る。
-中略-
互いの浸食作用で互いの輪郭が、少し、ぼやけてくるような、そういう個と個の垣根がなくなり、重なるような一瞬がある。
生きていくために、そういう一瞬を必要とする人々がいる。

以前書いた通り、私もまた、そういう人間の一人だ。

都会の生活を続けると、真っ黒くてドロドロした重いものが胸の奥と肩の両方に乗っかってゆく気がする。

それは決して悪いことじゃない。生きることに必死で過ごしている証拠でもあるのだと思う。

けれど、それに耐えられるほど、私は強くない。

だから、先日、長野県の戸隠神社へと向かった。

それは、ほぼ霧に歓迎された旅になった。

ただし、奥社に向かう間だけは驚くほど快晴になった。

戸隠は、悠久の透明さに満ちていた。

穢れとは無縁の、清浄な水のような空気が周囲一帯を満たして、あの「もやもや」が入り込む隙のない場所。

夜になれば虫の声がほんの少しだけ響き、後は地元の人たちの車が数台通る程度の静けさ。

生まれ変わった、なんて思わない。

それでも、戸隠で過ごす前と後では、生活の色がはっきりと変化した。

まず、例の「もやもや」が、なくなった。

ここから少しだけスピリチュアルっぽい内容になってしまうかもしれないので、苦手な方はスルーしてほしい。

ただ、私に霊感と呼ばれるものがないことは、最初に言っておく。

・ ・ ・

疲労、負の感情、代り映えのしない灰色の日々。

それらが、私の肩にのしかかっていたものだと、今では思っている。

多分、都会に住む以上、ずっと背負っていく嫌なもののすべて、といったところだろう。

ただ、戸隠の森は、それらをすべて私から引っぺがしてくれた。

まるで神道の概念で言う、「禊」のように。

戸隠の神様は、(多分だけど)私のことを歓迎してくれたと思った瞬間が、五社巡りを終えて鏡池に行った時だ。

最終日、前日の晴天とは比べ物にならない程どんよりとした雲が天上を覆っていた。

地元の人も、「雨が降るかもねぇ」というレベルの雲。

鏡池というのは、その名の通り、戸隠山が池に鏡のように映り込むからつけられた名前だ。

だから、鏡池に行っても山が見れないのは至極残念だと思った。

ただ、実際に行ってみた丁度その時、池の上だけ雲が切れた。

この写真を撮ってすぐ、空は曇天に戻り、山は一切見えなくなった。

以前書いた小説は、この池と伝承をモデルにして書いた話だ。

この池には、神様が棲むという。

あいにくと鏡として映り込む山は見れなかったけど、四方が曇天に囲まれた中で山の上でのみ雲が切れているのを見たとき、ぞっと鳥肌が立った。

分厚かった雲が、古代の女性の装飾品であるヒレ(天の羽衣のようなイメージ)のように、山を撫でながら消えていく。

空は山の上だけ切り裂かれたように青く、この奇跡は私が来てから十分と経たずに終わった。

神様が、ちゃんと私を見ている。

その感覚が、戸隠神社から降りた今も、体に張り付いて離れない―――。

・ ・ ・

戸隠の森は、深く、それでいて明るい。

動物たちの気配に溢れ(熊が出るそうな)、水に溢れ、木々が囁き合うように何度もさやさやと葉をこすり合わせる。

気持ちのいい風が吹く。

札幌と同じぐらいの気温だという戸隠の、清涼な風が肌を撫でていく。

この森を、かつて修行していた人々がずっと通ってきた道を歩いている様が夢のように目に映る。

――そう、私はこの清浄な空気を、肺一杯に吸い込みたかったんだ。

歴史も、自然も、総てがないまぜになってなお、これほどまでに静かな空間。

「私」という頑固な線を滲ませて、溶け合うように、忙しい日々を新たに過ごすことができるように、私の中に戸隠の森を補填する。

静かな風を受けて、目を閉じないで、森や池を見つめながら、私はずっと思っていた。

そうか。

やっぱり、私はこうやって、森に還ってこなければ、森を補填していかなければ、生きていられない人間なんだ。

きっと、そういう人はたくさんいるんだろう。

もしも、そういう人がこの記事を読んでくれたなら、ぜひ一度、戸隠へと立ち寄ってみてほしい。

きっと、あなたのことも、戸隠という土地そのものが見守ってくれるはずだから。

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