色なしの朝焼け #クリスマス金曜トワイライト

振り上げられた手は、激しい痛みに変わった。

留めなく流れる涙と共に、普段張り付いている奇妙で優しく疲れた笑顔がバリバリと音を立てて剥がれ落ちていく。

ばりばりと。はらはらと。

き の う が こ わ れ る お と が す る

あ し た も こ わ れ ち ゃ う

青い豚の貯金箱を抱え込む。

むかしむかし、誕生日にプレゼントしてもらった綺麗な青色の豚。これだけは守らなきゃいけなかった。

「この中に、たくさんの幸せを入れようね」

この中には、あの日の笑顔が入っている。大切な人の、大事なものが入っている。

守らなきゃ、守らなきゃ。

でも……私は誰が守るのかな。

女の人が髪を振り乱し、何かを手に握る。投げる。

あ し た を こ わ す お と が す る

その瞬間、私の体は、映画で見た鹿の子供のように飛び跳ね、灰色の空の下に飛び出していた。

そこに、君がいた。

普段下を向いている大きな目を見開いて、いつも寂しげにすぼめている唇をぽかりと開けて。

「…………あんたも、おいていくの……??」

耳になじんだ声が、背後から響く。

どろりと耳の奥にすがるような、踏みしめられ溶けかけた雪のように黒が滲みぐちゃぐちゃになった灰色の声。

足元から声が手になって絡みつく。その手はあまりにも冷たく、あの日の面影は削げ落ち、ただただ、ただただ、黒い。

「乗ってッ!!」

茫然と小刻みに震える体が、強い色の声に引っ張られた。いや、声じゃない。暖かい手に、強く、強く。

君は、私の手を取って駆け出した。

裸足の冷たさは、どこに飛んで行ったのだろう。

ただ、その手から伝わる熱だけで、冷えに支配された体がぽわぽわと暖かさを取り戻す。

自転車にまたがって、君の後ろを許されて。

君は走る。怖さでカチカチと歯が噛み合っていない音を響かせ、それでも。

私を、君が守ってくれた。

私に、手を伸ばしてくれた。

熱が一番冷たかった心に届き、ぽわりと温かくなる。優しくなる。

涙じゃない。痛みじゃない。すがるわけじゃない。

ここは、色のない「いま」じゃない。

君が怖さしかない「いま」から引きはがしてくれる。私と同じぐらい小さな体で、一漕ぎごとに「いま」という名の怪物の姿が小さくなっていく。

「ごめんね、いつもは、やさしいんだけど」

必死で走る背中に頭を預けながら、私は青い貯金箱を強く強く抱きしめた。

いつもは優しかったあの人が、もう、どこにもいないことを思い知った。

・ ・ ・

カシャンと、青い貯金箱は呆気ない音と一緒に砕けた。

そこに、入っていると思っていた「あの女」の笑顔はない。あるのは、彼女の目を掠めるようにして入れ続けた小銭だ。

寒さの中で、彼と一緒に、コンクリート管の中で体を寄せ合って夜の怪物を避けた日。

彼が、逃げようと言ってくれた日。

私は「きのうをこわす」ことを決めた。

あの人と同じように。あの人そっくりに。

たぶん、青い貯金箱を壊した時の顔には、「あの人」の真っ黒い面影があったに違いなかった。

「これ使って、遠くへ行こう?」

ただでさえ鈍くなっている心が、ころりと音を立てて凍り付いたのを隠すように、笑顔を向ける。

君は、不自然なその顔に、少し戸惑っていたよね。

自転車をこぐ君の背中は相変わらず暖かかったけど、その顔には少し苦々しいものがあったのを、私は知っている。

いくつもの街を、通り過ぎた。

君の漕ぐ自転車は、本当に「いま」という怪物から引きはがしてくれた。

灰色に塗りつぶされた夜はそこになく、涙を滴らせながら痛みを与える真っ黒な顔もそこになく。

世界にそれ以外の色があることを、私は思い出し初めていた。

そんな時、漁師小屋から朝早く起きてしまったあの日。

私は、世にも美しいものを見た。

胸をすく、橙のヴェール。

すぅっと胸いっぱいに息を吸い込みたくなる、藍の蓋。その二つを繋ぐ、目を奪って止まない紫の橋。

銀の飛沫が、空にも海にも散りばめられていた。

生き物のようにうねる海原に抱かれたいと思うのは、おかしなことだろうか?

「明日が来るね」

寝ぼけ眼の君が、隣に立つ。

寒いでしょ?そういいながら、同じぐらい寒いはずの君は、ためらいなく肩をぴったりとくっつけて、体温を分けてくれる。

「あした?」

「そうだよ……。だって朝焼けじゃないか」

「そっか。あしたって、こんなふうに来るんだね」

「?」

「ううん、何でもない。何でもないの」

ずっと、「あした」が怖かった。

すぐ壊れてしまう。すぐ痛みに変わってしまう。逃げ出せない黒に塗りたくられた「あした」しか、知らなかった。

こんなに愛しい「いま」を、知らない。

このまま時が止まればいい。

ずっと二人で、こうやって暖かさを分け合って、いつまでもいつまでも美しい風景に閉じられた時間であればいい。

暖かさが愛おしい。温もりが愛おしい。君が愛おしい。

けど、私は知っている。

―――この内側に、「こわいもの」が入っている。

優しくて暖かくて綺麗なこの気持ち。

だけど、ちょっとでも何かを踏み外したら、これが「こわいもの」に豹変することを、私は知っている。

どろりとしたもの。溢れ出すもの。どうしようもないもの。

――だって、あのひとのむすめだから。

私に、この気持ちを扱う資格はない。

優しい彼に恋をする免許を、神様じゃなく、私自身が取り上げる。

この「こわいもの」を、どうにかする術を知らないから。

くぅ、と音がした。次にぐぐぅ、と一回り大きな音だ。

一つ目は私のお腹から。二つ目は、君のお腹から。

何でもない、当たり前の事なのに、君は恥ずかしいことのように顔を背けて、体を離す。

「もうすぐ……もうすぐ着くよ。僕のお婆ちゃんの家」

「…………うん」

その日、私は浜辺にカレーライスを描いた。むしゃむしゃと二人で食べた。

君に伝わらなくてよかった。「ごめんね」と、口の中で呟いた声が。

・ ・ ・

隠れるつもりがなかった。ただ、最後に一目、君を見たかった。

最後に一言だけ、ありがとうを、言いたかった。

・ ・ ・

「溺れるように描くよね、あんたは」

「はい?」

「そんな風に一心不乱に絵を描く人は、なかなかいない」

「……いくらでも、いるんじゃありません?」

「はははっ。いや、集中して描くって意味じゃないよ。なんだかあんたは、海の中に飛び込んでバタ足するように描くからさ。苦しそうなのに、けど、世界は輝きに満ちている」

「……きっと、【必ず守ってもらえる】って信じてるからじゃないかな」

「え? 何か言った?」

「いいえ、何も」

「そうそう、君、この本を気にしてたでしょ? 私はもう読んだし、あげるよ」

「!! ありがとうございます!!」

「お、やる気、増したみたいだね。じゃあ次の個展の作品、頑張って。この作品の題名は決まってるの?」

「……すっごく悩んだんですけど」

「ふんふん」

「……【色なしの朝焼け】」

「……とてもカラフルだけど? いつも以上に、とてもきれいな色鉛筆画だよ?」

「ふふっ。良いんですよ……」

彼に伝われば、それでいい。

逃げていた、だけど幸せだった、あの日の風景を知る彼に。

・ ・ ・

〇リライト作品〇

・なぜこの作品をリライトに選んだのか

4作品すべて読ませていただいた中で、この逃げている女の子の背景をなんとなく書いてみたかったのです。というか、読んでて「自分だったら読みたいなぁ」と思って。

しかし、その代わりリライトになった自信がまったくないので、この作品は隅の隅の隅っこに置いておきます。

・どこにフォーカスしてリライトしたのか

「どうして彼女は警察官に対して「かくれんぼ」しなかったのか」

「彼のことをどう思っていたのか」

彼が大切だからこそ、母親のような「あの女」になりそうな自分が怖かったんじゃないかなと思いました。

マイナスの感情は、幼い彼女には鮮烈で、同時に今の自分ではどうしようもない。もちろん、少しずつ経験を積めば克服できるものではあるけれど。

彼女は、途中で彼を手放そうと決めたのかもしれません。

けど、マンションの窓が割られた日、自転車で一緒に逃げた日、すでに彼女は守ってもらえたのだと信じています。






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