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1965 KAMAKURA に生まれた僕らの、こどもリパブリック 

正月3日、どうでもいいことを書いています。
多分、これ、実話だと思って読んでも良いし
話半分に読んでいただいても良いのです
そもそも、読んでいただけるだけで感謝感激雨霰なのですから。
霰(アラレ) って字はこんなんなんだ? わぉ! 感じ苦手なんです。

既に、赤ワイン1本空けた男の活字なので、先に謝ります。駄文で申し訳なく、謝罪です・・・はい。 #ほろ酔い文学
お酒が書かせた、駄文です。

お詫びした上なので、ここからは好きに書かせていただきます。
勝手に書くので、 本当にごめんなさい

昨夜、眠る前に思い出していたシーンがあるのです。
それは、 #鎌倉  の小学高時代の同級生との出来事。
彼女の家は、#御成小学校 の、裏門を出て、それも図書館側ではなく、市役所側の裏門、イメージ的には勝手口みたいなところ。を通り、トンネルを抜けて銭洗い弁天へと行く道の途中にありました。順路的にはこれが最短、けれど、彼女が、この勝手口然とした道を通ったかは定かではありません。僕の創造では、この裏道は通らずに、正門を抜けて左折して、四つ角をさらに左折、市役所をぐるりと回りこんで、トンネルへ向かっていたと思います。なぜなら、裏の勝手口を潜るイメージが彼女には、まるでないからです。
彼女は、日本人離れした雰囲気がありました。高い鼻、はっきりした目鼻立ち、どこか中東の雰囲気を持ち、本人もそれを知ってか、インドの首ダンスの物まねをよくしていました。けれど、それも、品が無くというよりは、かなり洗練されていて、お嬢様ハンパ無いオーラを出していました。
読者様の仮名には「なにを抜かすか、公立の小学校に通っていて、そんなお嬢いる筈がないだろ」という方もいると思いますが、当時の鎌倉旧市街住民には、いくつかの選択肢がありまして。そのお嬢様、一部お坊ちゃま達は、湘南白百合を選択する層(これはお嬢さま)、清泉女学院(小学高は男子もいましたよ)に通う層、さらに、国大付属に通わせる層、ここを通う層ではなく、あえて通わせる層と書きました。これ以外にも、東京のそうですね広尾あたりに通った男の子、横浜双葉に通ってた女の子など、多彩かつ、カラーも、それぞれ少しづつ異なる中で、公立の御成小学校に通うお嬢や坊ちゃまも、僅かながら存在したのです。
分類的に言えば、これ、勝手分類ですが、私の当時の友人の中で、御成小通いの、お坊ちゃま、お嬢ちゃまは、どちらかと言えば、地頭切れる系でして、語弊があるので、差しさわりの無い範囲で書けば、例えば、私立系が、どちらかというと民間企業系のお嬢、お坊ちゃんが多かったのに対して、御成小系の同級生では、官のイメージ、もしくはイメージ的に民間は民間でも財閥系の香りでしたね。
とっはいえ、この層も中学になると、ほぼ御成中学は選択しませんでしたね。
ま、そんなことは、どうでも良いのですが、市役所の前を通り過ぎ、トンネルをくぐり、左側にあった保育園も通り過ぎて、鰻屋のある四つ角を右に入って、緩やかな坂を行く左側に彼女の、そのお宅はありました。市役所の対面、今でいう、紀伊国屋さんの裏手から行くと、あの半ば素掘りのようなトンネルを抜けて、坂を下った正面あたりになります。にその家はあったわけです。このお家が凄いんです。記憶が曖昧なのですが、多分、土地の形状からか、なんと、家の正面と道の間には、なななんと堀状の側溝があり、これが側溝と言うには、大きい、幅2m強、深さもかなりあるもので、道路に面してガレージがあり、ガレージと道路は小さな橋が架けられる、そんなイメージなのです。実際、立て看板には危ない
川に入るな! というのがありましたから、これを川と扱う場合もあるようです。その、橋付きのガレージも、シャッターが閉まるタイプで、車が何台か入るやつだったと思いますガレージの横に門があり、門を入るとすぐ階段になっていて、ガレージの天井の高さより上に、庭、建物、等が展開している作りなのです。家は、かなり大きな二階建てで、御屋敷以外の何物でも無いのですが、洋館でもなければ、旧来の日本の家屋でもない、例えても、あまり例がない、当時の近代建築で、木造。デザインはもちろんオーダーで、検索するなら、そのまま #昭和の豪邸  でヒットするあれでした。さらに、すごいのは庭、こんな庭、他で言うなら、 #岩崎邸  規模感は違いますが、芝生の漢字と、芝生から見た建物の感じがこれでした。
彼女の家に、初めて行ったのは、多分、小学校の4年生ごろだったと記憶しています。その時に、彼女のお部屋に通されたんですが、その部屋のセンスが良いのです。窓の造り、サッシじゃないのですよね、机も、当時の流行りのデコラティブのものではなく、塗られたニスの風合いが素晴らしい、ライティングテーブル、今でいう西洋アンティークなのですが、当時これがアンティークなのか現役なのかは不明。小学四年生の僕は、デコラティブの学習机にシール貼りまくり、飛び出すライトや、セットで付いていた、時計に電動鉛筆削りを早々にぶっ壊し、引き出し壊し、半ズボンの素肌が机の躯体に触れると冷たいのが嫌で、閉口していた私には、この木の机のぬくもりに満ちた机も素晴らしいものに映ったものです。どこか、完璧に調和した、この部屋の床材、壁、ベッド、机、窓の雰囲気、そのまどからの景色を借景に、窓はどこか絵画の様にもみえ、作りに感激したものです。この時、彼女と僕は2人だけではなく、もう一人、同級生の女のが一緒でしたが、この子が、当時の私にとってのアイドルで、小柄で愛くるしい目をした女の子、ウエーブした髪の毛が、彼女をよりテレビの中のアイドルに近づけていました。そんなカワイコちゃんは、お嬢様とも下町商店街の子供である僕とも、異なる分類で、本当に、小学校低学年でも、人間には生まれながらに、いろんな世界があると感じた次第です。目のクリっとした、小柄な女の子で、すごく可愛かったと記憶にはあるのですが、なぜか顔は思い浮かびません。なぜか、豪邸の彼女の顔は、今でも覚えているのに、これも不思議です。3人の親同士も、住む世界違いにより接点はなく、今思えば、子供達3人は、とてもある意味でリベラルに、仲良くなったのでした。
きっかけは、同じクラスの子供たちが、自分たちで言いだして、企画したピクニック、それぞれがお弁当を持ちより、裏駅の公園に待ち合わせ、葛原が丘を目指すという計画でした。これに参加して仲良くなったののが、この3人でした。このピクニックは、この後も計画されたのですが、子供の事情
大人の事情、家庭の事情で継続は難しかったようです。
そんな中、この日は3人がお嬢様の家に集ったのでした。

自ら書きながら、この日の記憶を辿ると、不思議なことがいくつもあるのです。

それは、彼女のお部屋と、庭で遊んだ記憶は鮮明にあるのですが、彼女のご家族や、使用人、他のお部屋の様子などの記憶が不思議なくらいありません。僕ら子供三人は、まるで気の利いた #クラシカルホテル  のような彼女の家で3人の時間を過ごしたのです。南向きの彼女の部屋、その窓から見下ろす広大な芝生の庭、彼女のベット(変な意味は当然ありません)彼女のベッドは、お爺さまかお父様のご指示で、マットレスと、その上の薄いマットとの間に、合板が1枚曳かれていたんです。柔らかいベットは身体によくないとおうせで、べニア板を挟んで、わざわざ硬いベットにしていたのです。それ、意味あるのか? 当時もそう思ったのですが、お嬢様の世界は矛盾に満ちている、そう思ったわけです。
確かに、彼女自身も、この合板をあまり良くは思っていなかったのかもしれません。
そして、先ほど書いたように、その後3人は、庭の芝生の上にと出てまいります。
ここでの事が、突然、思い出されたのです。
そう、この部分だけが。
私は、男性なので、小学高4年生世代の少女の気持ちも行動も言動も、解る筈なく、むしろ分かったら怖いです。だから、良くわからないまま、小学校4年の私は、56歳になるまで、この日、彼女達がした行動の理由が解かっていません。推測すれば、ちょうど、悪ガキ坊主が 女の子の #スカートめくり  をする様ないたずら心だったのだと思います。
正直、何をやらかしたのかは、ここには書きませんが、子供って時に、変なことをするんだよね・・ 程度にお茶を濁させていただきます。
本当にささいな、微笑ましいお話です。

小学生三人の独立国 無人島 #サンクチュアリ  まそんな感じです。
子供リパブリックというひと時でした。 


この日、以降は三人ともに、クラスも変わり、この3人が再び一緒に過ごす機会はありませんでした。私の場合は、30になった頃から、人生色々ありすぎて、現在手元には、卒業アルバムの類は何もありません。多分、なくした訳ではないと思うのですが・・

3人の話題と言えば、唯一、私の人生がまだノーマルだったころ、大学1年生の頃に、1度だけ同窓会があり、この豪邸の彼女だけには再開したことがありました。もう一人の彼女とは小学校以会えていませんし、彼女が卒業まで同じ小学校で過ごしたかもわかりません。同窓会にも現れませんでした。その、同窓会ですら、なぜか鎌倉ではなく横浜で開催されたんです。これは、当時もう鎌倉に残っている人間が少なく、出席者の大部分が、横浜の方が集まりやすい状況でした。それでも、集まったのは20名にも満たない数で、僕には鎌倉の特殊性を見た気がしたのを覚えています。その傾向は、どんどん助長して、今、同級生で鎌倉の残っているのは僅かです。これを、分析すると、様々なものが見えてくるのです。これは、雑木林の理論に似ています。子供たちは、やがてバラバラになりました。それだけ、諸事情がある場所なんですよ。(現在はそんあことは無いと信じていますが、きっとまた変化していくことでしょう)

そんな同窓会の後、彼女とは一緒に鎌倉まで帰って来たのを覚えています。この時、横浜⇒鎌倉の30分あまりの横須賀線の中で、会話は弾み気づけば、鎌倉駅に着いて、私は表駅、彼女は裏駅、(この当時は本当にこう呼んでおりました)当時、映画館とパチンコ屋があった方が裏駅、そう市役所のある方です。なので、車両を降りて階段を下りたら、彼女は右へ、私は左、手を振って別れたのですが、この何が無く手を振る彼女にはそれ以来、お会いしておりません。本当に、、いつでも会えるだろうと、思っていて、何気ない、また明日、そう、その程度の別れから37年になります。その後、彼女はご主人とともに、アルジェリアだか、ナイジェリアだかに居ると聞きましたが・・・・ それが、今から数年前のことです。めったに行かない彼女の実家の前を通ることが、そうしたら、なんと、更地だったり、別の家が建っていたのなら、動揺も少なかったはずなのに、通りかかったあの日、あの時のお宅が、取り壊されてている最中だったのです。呆然として、時の移ろいにただ、言葉もなく。
しばらく動けずにいました。
本日、グーグルアースでみたところ、なぜか、綺麗に更地になっています。隣は、新築が分譲されたのかいくつもの家が綺麗に建っていますが、もう何年か経つのに、更地みたいです。せめて、門扉だけでも残っていたらと思うのですが・・

我が家は商売をしているので、みんな、懐かしくなれば、店を訪ねてもらえば、私の所在は解ります。連絡もつきます。
逆は在りえず。
今思うと初夢か なぜ、1月2日 彼女達はなぜ、突然、夢に現れたのでしょう。

あの芝生の庭で、小学生の女の子2人が、同級生の男の子を揶揄うでもなく、燥いで見せた、あどけないけれど、どこか不思議な行動。さらに、なぜ、生まれた環境も、育った環境もまるで異なる、共通するのは年齢と、性別だけの二人が、、自然発生的に意気投合して、まるで、双子の兄弟の様に、あの場所に溶けていったのか?
もはや知るすべはないのです。

ぼくは、、夢の中で、妖精の戯れのような、あの日差しに溢れた庭を
見ていたのです。

下記は気になる作家さん、ぜひ読んでみたいと思うのです。
年齢も同世代、まして鎌倉 きっと読んだら はまる気がするのです。



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