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社会人短期留学記1 -ボストンに帰る意味

2022年、私は干支を3周した。
そろそろ人生の折り返し地点が視界に入ってもいいはずなのに36歳の自分は見事なまでに「何も持たない者」だった。寅の中でも圧倒的強さが自慢らしい五黄の寅なのに自分の左右は気づけばポッカリ空いていた。ちょっとしたそよ風でフラフラしてしまいそうなくらい自分の軸を見失っていた。ガオーと威勢よく声を発するくせに、もたれかかる背中のない私は自分が思っている以上に弱かった。そう気づいた3周目の干支を迎えたあと、大きな波となって襲ってきたのは停滞による不安だった。

緊急事態宣言中、私は友人に勧められてバケットリストというものを作ってみることにした。いわゆる死ぬまでにやっておきたいことリストだ。行きたいところ、やってみたいこと、それを思いつくまま書きなぐってみた。カナダのイエローストーンのオーロラを見る、台湾で鉄道一周の旅をする、予定もないのにウェディングフォトはサンディエゴの海で撮る、アイルランドで本場のウィスキーを飲み比べをする、Franz Ferdinandのライブをスコットランドで見てパブでアフターをする、とかとか。除夜の鐘じゃ足りないくらいとめどなく流れ出る私の煩悩、欲望。

その中で一行目に迷いなく書いたのは「美術の勉強を極める」だった。

そして2023年、私は一か月後にHarvard University Graduate School Of Educationのサマーカンファレンスで美術と教育学について勉強する。

ボストンと美術史と私

ボストンに帰るという表現は自分にスッと入ってくるフレーズだ。それもそのはず。ボストンは私が育った大切な思い出が詰まった街なのだ。といっても留学生のように志高く向かった先ではない。よくある親の仕事の都合というやつだった。

この街が育んでくれたのは美術との出会いと美術への愛情だった。初めてボストン美術館に連れて行ったもらった時はまだストローラーに乗せられていた頃。子供特有の低い角度からモネの「ラ・ジャポネーズ」を見上げた時の感覚は今でも確かに覚えていて、思えばその時に私は美術史の道を進む運命を確信していたんじゃないかとすら思う。
土曜日の朝に連れて行ったもらうことが多かったのは、ドーナツ発祥の地ボストンでは飴ちゃんの感覚で無料ドーナツが提供されるドーナツ天国だからだ。ドーナツは私のソウルフードと言っても過言ではない。そしてその無料ドーナツは美術館でも同じでエントランスのある一角でもらうことができたのだ。お気に入りはチョコレートがかかったシンプルなやつ。ここで両親と展示作品を堪能したあとにドーナツを頬張る時間が好きだった。

初めての経験からしか得られない衝撃や感動があるのだとしたら、絵を見てその世界観に引き込まれる感覚を体験したのがボストン美術館だった。当時5歳だった自分は絵が好きとかいう崇高なものではなく、作品と対面することで得られる感情が好きだったのだと思う。私が迷わず高校や大学の進路を決めるときに美術史が自分の心の真ん中にあったのはこのボストン美術館での体験が忘れられなかったからだ。


大学院と歩まなかった道と今

大学では迷わず美術史を専攻できる美学芸術学科を選んだ。他に行きたい学部などあるわけがなく、内部進学なのに第一志望しか入れなかったら、当時の担任の先生に呼び出しを食らった。結果第一志望に合格したから良かったものの、私は美術史が勉強できないのならあの学校に行く意味はないとすら思っていた。猪突猛進というかなんと言うか、決断が早く、こう思ったらこうする!という謎の意思の硬さを持った高校生だった。

大学4年間は今でも胸を張って頑張っていたと言えるくらい楽しい毎日だった。一般教養科目を取らず、専門科目をメインに構成した私の単位たちは、いわば朝から晩まで好きな教科しかない状態。こんな楽しいことがあるのだろうか。早々と卒業必須単位を取り切り、京都の大学コンソーシアムという単位交換システムを駆使して京都市立芸大まで面白い授業先生を追っかけて日本美術史を学び、西洋建築史の基礎を知りたくて京都女子大に通い、頼み込んで大学院生の授業にこっそり入れてもらったことすらあった。在学中はスタンフォードの東洋建築史の聴講生もやったり…文字通り好奇心に素直に手あたり次第真正面から飛び込んでいた。

そんな状態だったから大学院進学は当たり前のように頭にあったし、そのつもりで就活そっちのけで院試の勉強をしていた。そして合格をいただいたのだが、実は私は院に進まなかった。人生でやり直したいポイントがあるとしたらここだ。理由は院試と同時期に美術展企画運営をしている会社から声をかけてもらったからだった。この時ほど悩んだことはないと思う。卒論も仕上げないといけないのに、どっちにすべきか迷っていた。大学院に進学したとしても学芸員の道は厳しいのは目に見えていた。私が選んだのは就職だった。ここだったら学芸員と同じような仕事をオン・ジョブ・トレーニングのような形で身に着けることができる、そう思ったのだった。

結局その会社には1年半在籍した。いろいろあって辞めることになったのだが、美術展のビジネススキームからリサーチ、プレゼン、等々、かなり経験させてもらった。

その後の仕事もアートに携わるんだという自分の中の意思(もはや意地?)をもってキャリアを積んできたがやっぱり自分の中に残っていたのはもっと勉強したいという欲だった。

Project Zeroとコロナ禍と出会い

社会人12年目の時に新型コロナによって世界が変わった。エンタメ業界に身を置いていたこともあり、最初の一年は不要不急というレッテルを貼られてしまったため、お先真っ暗状態に陥った。

そんな時に出会ったのがハーバード大学教育学大学院が中心となっているProject Zeroという活動だった。一人部屋に閉じこもるような生活だったとき、持て余した時間を少しでも好きなことに使おうとして始めたのがオンラインで海外の大学の講義を受講できるedXというサイトだった。そこでちょうどタイミング良く見つけたのがワシントンにあるナショナル・ギャラリーがProject Zeroの一環として開催していたTeaching Critical Thinking Through Artだった。
当時の私は大学院に再挑戦することを考えていたのだが、悩みが一つあった(経済面以外で)。それは果たして美術史の研究者としてこの先キャリアを積みたいのかということ。自分には研究を突き詰めるというよりも美術を活用して何かできることがあるのではないかと考えていたところだった。当時英会話講師をしていたこともあり、自分の中で教えることが意外と得意だということを発見したのも、新たな道を模索するキッカケとなった。

Project Zeroとの出会いは衝撃だった。講義の概要に目を通した瞬間から「これだ!」という感情がふつふつと湧き上がってきた。こんなにワクワクしたのは大学の入学式以来かもしれない。2022年にはオンラインでナショナル・ギャラリーが主催しているSummer Session for Educatorsに参加した。世界中のアート・エデュケーターたちと一緒に話して、勉強した時間は私の中に眠っていた勉強欲を掻き立てた。

回り道と期待とこれから

気づけば社会人14年目。紆余曲折ありつつも、なんとかキャリアを重ねてここまで来ることができた。美術しかやってこなかった人間がまさか教育学を勉強したいと思うなんて。院試一直線だった頃の自分は想像できなかったと思う。
美術教育(アートエジュケーション)をやりたいのなら国内でもいいのでは、といわれそうだが、私がアメリカが良いと感じたのは勉強することに対して社会が応援する姿勢であることが大きい。実は類似したプログラムが日本の文科省でも開催されているのだが、ここでは教職を持っていないとダメ、〇年以上の経験がないとダメ、など足切り方式で私の学歴職歴だとスタートラインにすら立たせてもらえないことが多すぎる。それに比べ今回のカンファレンスもオンラインのセッションも、熱意を示した小論文で門を開いてくれた。実際セッションではベテラン教諭たちが私のような経験値の浅い人間のプレゼンをしっかり聞いてくれ、対等に評価してくれた。こういう学びの土台がある事で自分も引け目を感じることなく、やりたいという熱意の火を抱き続けることができている。

今は会社に所属しているし、今回の留学も短期ということで休暇システムを使って参加している。正直これからどうするか、やりたい夢は描いているものの、具体的なものはまだ何も決めていない。ただ今学生の頃のように勉強できるワクワクした気持ちでいっぱいだ。

2023年、私はボストンに帰る。
そして美術という学問に帰るのだ。

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