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自分を肯定していく旅

結論はタイトルの通り、
以上。

なんだけど、ちょっと分解して、ロゴブロックしてみましょうか…。


8/30メモ

どれだけ”認める”という行為が難しいことか。

というのは、自分の人生を見てみるとよく分かる。

人はそれに、肯定することに、自分の一生をかけて生きていく。

その様に感じている―――。


数日の間、全てが”肯定”に繋がる話だと観えていた。
いつもの様に目の前の事象はバラバラ、だけど背後で括れるのは「肯定」。”自分”と言う存在の。

少し触れてみる。

逆から入って、それだけ自分というのは、自分によって一番肯定されない存在、という深い所での葛藤があるのだと思う。

以前に、我が家のワン、ピースのエピソードを幾度か書いた。

鏡を見ても目を合わせる事がない”自分”。外から見るそれは、「自分」という事を理解できるものでないから。

オシッコをした後に拭いたタオルを嗅ぎ、自分のソコを嗅ぎ照らし合わす(様な)動作をするピース。そのニオイが自分と理解する様な行為。「自分の中から出るモノ」とタオルのソレは同じという事を一致させる。
「自分の中から出るモノ」は、きっと本人も”自分”という事を知っている。


その話の時、主人が言った。

「動物は”他”のことを知る方が重要だからね。だって、敵(かどうか)を知らなくちゃ、やられちゃう世界だもん」

そんな風に考えた事がなく、「なるほど…」と思った。

人も他者に目がいく。行きやすいのは同じかもしれない。それは、自分というモノより外の方が見やすい、分かりやすい、という事だからかもしれない。


そしてこの目が、外に向けて開いているお蔭様で、自分の事を知ることを、段々と忘れてしまったんじゃないか…。「世の中に、社会に、自分という存在をしっかり現したい」そう思っているのに、内側では、実はこの自分自身が、自分の存在を認めていない。

この殆どを、認められないという部分から少しずつ肯定部分を増やしていく。生きている間の時をかけて。塗り変えて行くように。

まず一段はその様な感じ。

少し広げて書くと、それはたくさんの”基準”を、自分が経験するたびに”自分に”取り込んできたから、と言える。

私は、「何かを知る(理解する)」というのは、他(者)があって比較することで、自分を知ることが出来ると思っているけども、その比較というモノサシは、使うたびに”道具”から、自分という存在の位置を示すものに変わって(替わって)しまう様に思った。

・・・

【少し広げて書くと、それはたくさんの”基準”を、自分が経験するたびに”自分に”取り込んできたから、と言える。】

この部分に人の内側が確かに観れると感じた。

それ以外では、メモ冒頭の「・・・その様に感じている―――」まで。他の部分は補足。


外の世界の様々な”基準”などなければ、相対も何もなく、ただそれと言うだけのもの。自分を疑う事も卑下することもない…、”強さ”というものは、ワン達を観ていて”ある”と言えるので、この部分はないとは書けない。ワン達は時にしっかりと、マウント行為は行っている。

その事実は決してダメなことではなくて、ただ強いとか、ただ弱いとか。そして”劣る”様な状態を私たちは認めたくない。認めることが苦手。それらを受け容れる事が苦手。その様にしてしまう事で、他に示すことが”不利”と、どこかに感じているから…これも動物的。


人が苦しくなるのは、動物たちの様に、「それ」として終わらないから・・・、なんて書いていてふと、我が家の主人を思い出した。これはラッキー(笑)どこにどの様に言葉をつけていけば良いかな?と考え出した所だったから。

主人は、幅広く経験をしていない。外部をあまり取り込まない。特に何ができるという突出しているものがある訳でもない。だけど、自分を否定するような事は殆ど言わない。かなりの自信家とも言える。

独りでいることが好きな人。”取り込んだ基準”が自分の中にあまりないので、それらによって”自分”がふらつく事がない。自分の存在を意識して考えることなしに、”肯定された状態が保たれていると言える。


ここにまた言葉をつけていくと、とても人間的な基準を追加していくようになってしまうので避けたいのだけども、”一長一短”はある、ということ。物事の見る角度によっては世間知らずという言葉もつく。

逆に範囲を広く持っている存在にとっては、取り込みが多いので、この中から”自分”を肯定していく作業は時間もかかるかもしれないし、大きな出来事によって、仮の自分を壊しながら「自分」という存在に近づいていく事が必要なのかもしれない。


加えて、世の中・社会という揃えられたモノコトに合わせる事も場面では必要で、してないつもりでも私たちはその枠の中でしっかり生きているもので、それらを完全に排除も出来ずに抱えながら、”自分”という色に塗り変えて行くように思う。

ニンゲンとして生きている程に葛藤もあるだろうし、その中で本来の自分が心地良い場所を探しながら人生を歩いて行くことは、大変価値が高いことなんだと思う。

一番身近な存在に人生の時間をかけて会いに行く。

どこまで自分の色に替えていけるかは、決して誰かとの比較じゃない。

”会いたい人”に会いに行く。
その為に人生を目一杯使って良いんじゃないか。


冒頭。
あんな風に一昨日少しだけ書いておいたんだよね。

一昨日から翌日にかけて、確か2~3回スマホ上で”ブロック・ロゴ”を目にした。

(どっかで書いたよな…?まだ書いてなかったっけ?)

アタマの中の想像に留まるものだったかな?と、大したことないので確かめなかった。

で、続きを書こうと昨日「あ、やっぱり書いてた」と繋がる。

そのアルゴリズムと、人の脳内のコトへの合わせ方・ピント絞り。このパターンを観るたびに、カメラのレンズが音を立てて絞っているのが聞こえてくるようだ。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!