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シーンによって…だわね

注)メモの主旨自体は価値観の話を書いた冒頭の2行だけだったのに、ここでの途中からの補足では「表現の仕方」へ流れてしまいました。(私にとって)とても表し方が難しく、肉付けの仕方に偏りがあり、完全な”言葉不足”状態で今回は書き上げています。

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なぜ、自分自身なのか?

自分の価値観で生きているのが私たち自身なのに、その世界に他者、”○○は”を入れてしまうから。

私たち(ここでは国柄を念頭に置いている)の良さ、「相手を想ふ」という思いやりの誤用というのか、負の側面と言うのか…、その習慣が裏目に出ているような気がする。


主語は大原則で「私」で良くて、それが、「誰か」にして慮る優しさが、今度は自分を削ることになる。

見ているのは「私」なのだ。

いつも各々において、通しているのはこの「私自身」というものなのだ。

だから外を見て、何かを感じたとしても、「私」なのだ。
(↑そう”感じた”と既に言っている)

・・・

この様にメモしているのだけども、noteへ移しながらやはり感じるもの、補足が出てきます。

結局は、「同じ」ということになってしまうというのがまずは結論。その上で、書いた事からの目線で簡単に補足します。

誰某は…。
誰かという他者を思う時、主語が替わっていい。そうする事で、私という人は自分を通して、他者に近くなる。これは「その相手からしてみれば分かりやすい態度」となる、かもしれない。優しさなどが伝わりやすいスタイル。

一方。
主語は替えない、いつも基本は「私」とする場合。

もしかしたら、こちらの方が感覚的に難しく感じるかもしれない…それだけ”私”への言い替えに慣れていないと思う。だけどそう考えると、こちらの方が私自身に対して「素直」なように感じる。


いつも言うようにこれも正・誤でなく、ものの見方・捉え方考え方。

相手のことを言いたい時に「私」を使う。相手の事を言いたい時に、「私」を使う、使ってよい。結果的に「同じ」というならば、どちらを使っても良くては?となるのだけども、主語は侮れず、それに”後”は続き、無意識に”相手”を拾う…、そう感じているのはこの「私」なのに。

主語を「誰か」にすると、それに該当する誰か、対象が発生する訳で、例えば私が主人と話している時に「あなたは」といえば、当然主人が対象になる。

会話の中で、ごく自然に行われることだし、考えなければ普通にやってしまうこと。だけど少し考えてみると、ここには「表現の仕方の工夫ができる所なんじゃないか」、そう思ったから。

主語を切り替えないままで、”私”のままを維持することは、無意識にその対象は「自分に」向けている訳で、もしかしたらそこには強い主張が出てくるかもしれないけども、あくまでもその対象は私であって、それに対して今度は”相手がどう感じるか”ということが単に繰り返され(相手も同じであれば)、自分に返ってくる事で”私”がまた、何かあれば反応をする、という事になる。


言葉のやり取りとして、私にしようがあなたにしようが「やり取り」は変わらないようでいて、中身、特に相手の受け取り方には大分違う印象が出るのではないか…。そう感じた。

仮に。

「あなたは」と私が言われれば、「いや、違いますけど…?」など内容によってはソレに対して自分の想っている印象で当然返すと思う。「私のこと」だからだ。”あなたは”といわれると、それに”合うもの”をきちんと探し出してくる「私は」と。


こうして書くほどに、自分と他者の間における”捻じれた表現”の仕方を私たちはしているのか?と感じてしまった。

そう。「感じているのは、”この自分”」なのに、主語を外の対象にしてしまう…、それを観たように感じた。

結論は同じとしたのは、「他者を自分の代弁者」とするのか、他者にそのまま「自分」として語らせるのか、という表に現わしている部分、やり方の話であるから、「”裏と表”というものを、クルクルとそれに合わせながら使い、一応は正面から見れば”一つの面”としてのみ見えるように、変化させるだけ」で、同じことなのかな…と感じたから。

だけどもう少し掘って部分を見ると、表を「私ー誰か(分ける)」とするか「(すべて)私」とどちらを選択するかによって、裏側にあたるモノの動き方がはく違うという事を感じる。それは前述のように、捻じれがあるかストレートかということ。自分の中から感じたものをそのまま話すには、主語は「私」にしかなり得ない。

ここで書いているのは”会話”的な話であって、何かの指導等スタイルによっては、逆に主語を替えないと余計に難しくなってしまったりというケースがあるのはもちろんと思う。


脇道で殆ど進んでしまったのだけども、メモ内容に少し戻して終わりにします…。

と言っても、メモに要約されているのを引き伸ばすようなものだけど、意識と無意識と言っても良さそうな、価値観という無意識側にある状態と、表で使う言葉という(自覚)意識との不一致、とでもいう様な感じか。

自と他を分けずに、同じように考えることは、言葉では出来ても殆どのことで私たちは対応できていない。もしそれが出来ているならば、どの様な言葉を使おうとも、私だろうが、誰かだろうが、捻じれもなく自分の中を通って行く。

そんな事は、悟ってでもいなければ中々できないので、自分の中をスムーズにしてみる事。捻じれの少ない状態にしてみることが、まず大切な様に思う。

結局は「私がそう思っている・考えている」ということを現わしているに過ぎず、それを時に(いや、多くは?)主語を自分から外してしまうから、何か複雑な状態になったりもして。


そして、この表のあれこれを思案するでもない他の手段は―――。

自分の固まった”価値観”をゆるめる、時にぶっ壊すことで、表現がどの様であっても、自分自身の中に他者○○が入ってきてもあまり気にすることなく、”同様に”考える事ができるのかもしれない。

つまりは…。
個の持つそれぞれの価値観がどうこうの問題がある訳でなく、凝り固まる「柔軟性の欠如」の方にどちらかと言えば難が見つかりそうです。


追)予定から繫げるはずの内容にリーチしませんでした(途中から路線を替えた(笑))。この内容から派生して繋げる予定だった、「あなたであれ」を明日は書いて行きます。

これは過去のエピソードを挟んで書くので、長くなりそうであれば分けて書く予定です。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!