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必要なものは手に入る

「読み終えたら書ける」。
似たような思いは今までに何度も経験した。

「これが終わったらできる!」その思いの強さ、それを楽しみにしているその時の少し興奮気味の自分。そしていざ終わると、出来る状態になるとソレはもう”終わっている”かの様な雰囲気。

いつだかに貼付した”脳の働き”。ハンターのように追いかけている時がやっぱりおもしろい(笑)


前置きはさておき。

上記の部分もあるんだけど、また別の目線も事実あり。それは出力するにあたって今度は「具体的に」していかなければならないから、働く場所が移行するかのように冷静な頭から”組み立て”をしなければならず。

そしてその今までの高揚した状態から抜けた域に入って具体的なものにするまでに、「幾らかの時間を脳が欲しがって」いる。「」の部分は非常によく感じている。

ここ迄の表現は、今までにも(同様のものを)書いていたはずなので、「また?」と感じるかもしれないけども、実際に脳は、私の脳はその様な経緯を辿る。

そのシーンを担当する”アタマ”が、それぞれにいつもそこにあるんだよね。

・・・ ・・・ ・・・

本を読まない様にして来た何年間から久々に、昨年は苫米地さんの本を読んだ。その時にメモした事があった。

”先に知識を入れてしまうと幾らかでも、それに寄せるようになってしまうから(本を読むことを)避けてきたけど、目の前のことを「ソレ」として観る力が強ければ、”そのことは問題ではない”のではないか?”

というような考えを持ったことは、きっかけになっていると感じている。

今年、Xの中でその本を知った。”傾聴”に興味があった訳ではない。この見える所に書いてある言葉で引っかかった所が自分では記憶がないけど、”読んでみたい”という思いがありすぐに注文した。

記憶はなくても、すぐに私を動かすモノはあったという事だよね。

昔なら、楽しみにしていたそれを優先にし、早く読んでしまっただろうけど、今はペースも”日常”の隙間に挟む形で読みだした―――、このペースが実際に「丁度いい」と、驚きを経てからリズムを崩さないように読み進めた。

私の周りに起きる、主に主人とのやり取りから学ぶこと、そこからの私の気づきを、noteやラジオで話すわけだけども、それを考えた(出力した)時、その後に読むその日の内容が、見事に揃い始めていて驚く。2~3度目でそういう事なんだ…とその状態を受容れ、ペースもそのまま、何も意識することなく普段のままに進み続けた。

言葉は違くても、そこに書かれていることが同じようにしか見えず、それがどのような感覚か想像ができたし、「その状態」につける言葉、何度も”世の中で言われているソレとは違う”と言っている詳細に頷き、たまらなかった。


それができるできないなんて話じゃなく、私のように知らなくてもこれに限らず、やはり”やってみる”と、「そこに行くよね」という決まった所に辿り着くことがある様に思っている。それこそが私の目的でもあり、それがあるから本などの情報を先にあまり入れず、確かめて行きたかったものだから。

そして”双方”から辿り着いた所に「そうかもしれないね」という色の濃さが現れていると思っていて、そういう事を証明して行きたかった。

勿論、様々なものの一つに過ぎないのだけども、それでも大分削ぎ落せている事はあると思っているのだけど、どうでしょうか(?)

途中からは「(内容のそれと)合っている」という感触が多く得られていたので、書く時に普段なら私は極力自分の思う言葉を付け、表現を重ねたくないと思っているのだけど、それも”諦めた”。その表現になるのは納得しかなかったものだから。


本を読み終わり、復習するでもなくただ幾らか脳内(?)では反芻していた様に思う。そしてそれを含めての”消化(整理)”に少し時間がかかっているんだろうと、書ける状態になっているけど着手しない理由と結んでいた。時間にゆとりがなかった部分も勿論ある。

まだ読み始めてそんなに経っていない頃、メモしていたこと。一部は既に過去記事の終わりに入れて出している。

頭で勝手に作られる文章。すごいかっこいい。「私の感じじゃない」とすぐわかる。誰?じゃあ誰だ。ロジャーズと雰囲気を感じる、その時に思う。
「こんなに簡単に入ってしまう。自分にこんなに簡単に他者が入れる…」そう思った。
そして”彼は生きている”とも。
不思議な感じ。”この意識”状態なら完全につながる事、だけど、”自分じゃない”という認識もある事を感じた。
いやしかし…
かっこいい表現だった。
”私”ではした事がない表現で、「このまま頭の中にこうやって湧くようになったら、もの凄いことを書いていける…」と、その中で思ったほど(笑)
だけど全然憶えていないし、ひとつも思い出さない(笑)

1/10 lineメモ


そもそも、”かっこいい文章”が書かれていた訳じゃない。(起きる前の)その状態の中で、私がその様に”雰囲気”を捉えていたというものの表現。実際に読んでいる時にそう”感じた”所はなく、だけどその様に印象的には受け取っていた可能性があるという事。

また自分で「誰?」と問うたことにより、その場で思いつく”他者”は、寝る前に読んでいた本の登場人物”ロジャーズ”と、即座に結んだと理解している。

そしてこれが私の本を避けていた理由の最大でもある、「こんなに簡単に入ってしまう」というところ。

人は、そういうつもりがなくても無意識側では必ずしっかり受け取ってしまっているので、それを極力避けたくて何年もやって来た。”自分の中から”出していきたいという拘りがある。

既にある自分の中の情報が、100じゃない事くらいは分かっているけども、それを知っているから余計にそれを避けたいと私は思っていた。

このハッキリと、意識もあるかのような状態の中で、”彼は生きている”と確信めいた様子で感じている。その意識の中では生死も関係ない。現にこれだけ”リアルに”、私の中を当然のように流れていく…、そんな感じでしょうか。


本を通して、「そういう事だったのか…」と知り、自分の態勢が自覚される。自覚するという事は固まるモノがあるわけで、それは今までより私に”意識”されてしまうことになる。

例えばこの本でなく別のものだったとしたら、それが意識に上がったわけで、これだけに起こる出来事ではなかったにせよ、でも今、「これだった」という所に、自分の中に意味が出てくる。

この本の中で表現されていることが解ったから、先日に触れた「既にその様な在り方をしている人たち」のことにも思いが流れて行った。それはこちらのそれを徹底されたものかどうかは私には分からないけれど、「あぁ言うことか…、こういう感じがそうか…」などが記憶から引き出せた。


最後まで読んだ私の感想は、「私自身のこと」と感じた。

これは、今までも感じてきている受容、受け容れることという内容が、自分自身のことをそうするという所から、私にとっては究極の、(今で言えば)主人の何かを私自身がそれとして受け容れて行くことと読んだ。

色んなケースを考えれば「結構厳しいな…」と思うけども、それはやはり、そうなる時はなるし、今から案ずることでもないしと、「でもあるかもね…」と頭に入れておいた。

少し広げてものを言うなら―――。

自分自身に徹底して手を入れていくと、結局後には他者という自分以外の方向へ広がっていくと感じる。それはこの表現が合っているかどうかは分からない。大きくした自分の中に他者を含んでいくという表現でも良いと思うから。

いや、気づかぬうちにしているそれが、自身を大きくしているという言い方もできる。自分のやっている事には、必ず自分以外の”他者”があって、自分に変化が起きている。

頭の中の”目線”が切り替わるには、他者の存在は欠かせない。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!