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書くと決めると遠ざかる(笑)

昨日に引き続き、私の感じるシンクロを書いていきます。


本来は。

本来は、自分と他者という人は、別個のものであって、「私が言った・あなたが言った」ということで通常の理解は良いのだけども。

それが、そこという所(昨日からの話は、SNSなどの文字・言語空間を前提として書いている)において、「主語が消える」ことを、当然のように目にする事ができる。これが「一本線」。

”主語”を飛ばした「全体」目線。

全体と現しながらも、この前提は「私」という自分の目線が主となっている事は明らかで、読む(解釈する・確認する)うちに、これは”他者”による発信で、それは不特定多数へ向けたモノ、という事も理解ができ、「結びつけたのは”自分”」という事も分かるのだけども、この「分かって」の作業の前で終わらせてしまえば、「不思議~、すごい!」などの感覚で止めてしまうことになる(と感じている)。


「驚きはそれはそれで良い」。
まずこれでひとつは良いのだと思う。本当におもしろいものだから。だけど、その先へも探索(探究)は十分可能で、逆にその理屈をよく知っている人ほど、それに関して「騒いでいない」という事は、冷静に辺りを見れば判る…かもしれない(*^^*)

そして、過去に書いたこととして分かりやすいのは、自分がその波動(波長)に合った空間にいることによって、その空間での事は”同調”しやすい、ということ。それはこの人間の思う目の前に見えやすい空間だけの話ではなく、距離など関係ない完全な”同じ振動”を持つことによるシンクロ。

(こちらが)起こした、(相手に)影響されたというより、同様の振動によって自然と現れ出るというもの。自分の中に大きな幅を持っていれば、それだけ係ってくる確率は高くなる、という事は言えるのだと思う。


少しメモから。

「自分の発信が先」

軽やかなピンポンの様な感じ―――、シンクロ。

自分と他者間で、ごく自然にピンポン玉のやり取りのように、軽やかにそれが行われている時(両者とも無意識状態)、そこには自分という存在と他者という存在はなく、ただ無意識同士が楽しんでいるかのような”やりとり”だけがある。

それはやはり、ごく自然な一本線が敷かれているかのようで、そこに言葉がコロコロ並んでいるそれを、それぞれに”ひとつのコト”として眺めている状態。

その時、自分という人や他者という当人たちは、(無)意識によってのやり取りを、後でこの目に見せられている。そんな風に思う。

(10/19メモ)


「自・他」

”自”の範囲が元々(何らかの過程で)広い者と狭い者とがあって、それが大前提。

”そこ”から考えた、表に現れる「ウラ・オモテ」という様な変化対応で、そことの(そこからの)調整、バランスを取る。(この私のイメージ軸はタテ。空間の広がりにおいては全方位)

それがあり、表上の「他」というのが必然的に決まる。そして可変。

モノ・コトによって空間は広がったり、極度に狭くなったりと伸縮する(させる)から。

更に、する・させるのではなく、この自分の持つ意識(無意識的意味)によって、そのピントとも言える絞り、ぼかしが行われている。

(10/14メモ)

(”湧いてくるモノ”の世界は時に、本当に理解不能(笑)真剣にその空間へ入って理解しようと思わなかった、というのもあるけども、10/14のメモは、”イメージ軸はタテ…、空間は全方位”など、私自身が再度のイメージが全くできない(笑))

・・・

「シンクロを説明します」

なんて言って、直接の言葉で書けることなど、やはりほんのちょびっとだけ。

それ以外のナンチャラと、それは関係あるの?などが、「それ」というものを説明してくれる。改めてそんな風に思う。それは何故かと言うと…。

「シンクロを書こう」

と意思で決めた。それによって自分の中から”情報”がワーーッと集まり出す(集め出す)。それを軽く準備としてまとめていた(メモ)のだけども。

その集めた幾つかの”パーツ”を見ても、そのパーツを見ているだけでは、自分自身の動作でありながら、「これは関係してるのか?」という疑問さえ湧いてくる始末。

だから、「そんなものなんだろう…」という所に着地する。一点の材料をしっかり眺めている状態では、それがどの部分・要素なのかは分からない。(・・・以降のこの部分、大きな比喩になっています)


でも、確かに事の発端はその意思を元に”集めた”ものであったはずで、目の前のモノに焦点を当てる状態を続けると、「元々」が分からなくなってしまう。それを確かめるのが”遡ること”であって、モノ・コトに夢中になっているうちに、”進路”というものが不鮮明になってしまったりするのだけども、振り返って確認を入れることで「大丈夫」または「おっとズレた」と観えてくる。

更に広げてしまうと、そのどちらでも”大丈夫”という事と私は思うけども、ここではこれ以上は広げずにもう少しシンクロに近い話へ。


昨日の冒頭に書いたのだけども、目線が変わる、別の角度の”理解”が現れることの実感なのだけども。

”体験”を通して他の目線が現れてくる。

それまでは、解釈にあまり幅は出ず、似たような表現しかできない事と、それによって当然「その解釈しかできない」というある種ループの中に居ると思う。

それがどの位かの体験を重ね続けることで、例えば「驚き」という目線から見ているものと、「それはつまり…」という冷静の目線から観ているものとでは、見えてくるものも違うという事に繋がる。

非日常的な感覚からやっと普通の「日常」のゾーンへ移った時、そこに”本当の目線”がやっと現れるように思う。そのゾーンへ移り、見え出すことによって解釈が以前よりは広くなっていることを実感する…。


そこでまた「両輪」を思う。それに関わる必要な体験が増えないと、見え方も増えない。”知識”からしばし離れて流れの中を生き続け、その後に”ふわっ”と頭に浮かびだした時それが、「そろそろ両輪のタイミングが合っている」という事なのだろうと、今ならこの「タイミングが合うシンクロ」にさえ”納得”ができる。


10/19メモから

両輪。
理解は行動(体験)を経てその幅が拡がる。冒頭に書いたように、言葉の理解(解釈)さえ、この脳内に持つ視点の多さに紐づく。

言葉の意味などはほんの一部のもので、そこから拡げて映しだす世界の方にヒントが多くある。言葉そのものの意味が”分かる”というのはスタートラインだという事を感じる。

だからこそ。

たくさんの言葉を知っている人たちは、それだけ空間を拡くして視ることが可能という事になる。その空間を膨らませるかどうかは、身体を使う行動にかかってくる。

・・・ ・・・ ・・・

”シンクロ”の話と”その周辺”を書いていて、ソレというものだけでなく幾つかの事が同時に分かるということが、”よく分かるケース”だった。

以前に何度も書いてきた、「”ふと”思い、本などを開けば、そこに書いてあった~」などは、このケースにもろに該当と思う。私は”この事”を書こうとした訳ではないけども、共に処理されていて、”今分かった事”としてこの”両輪”があった。


はい。
全然書き切れていないので、また明日へ続きます(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!