見出し画像

自分という人の動作

”自分というもの”の自分を、各々はどれを、”自分”と言っているのか?


(3/2  lineメモ)
自分に近く居る時ほど、機能を入り口としてその世界に入り込み、知らないその世界に浸る一体。認識されない”自分”という存在の中にある時…、眠っている時。

覚醒時の、認識する(できる)自分は、そもそもが客観状態で、”経由”の形をとっている。自分というものを、同じこの自分というものを、外からとその中からと、見ている場所が違うと感じた。

つまりそれは、頭の中の使っている場所が違うんだろうと思った。

・・・

「頭の使っている場所」が違う時、それは自然とそう考える・捉える、という事は今までにも、幾度となく触れていて、私自身は経験から、”どうしてもそういう表現をしたくなる”ものとして書く。少し違う言い方で「”自分”の居場所が違う」とか、もう少し離れていくと、「繫ぎ方が(今までと)違う」というもの。

”自分”というものが、どこか特定の場所にあるという風には、頭の中からは到底言えなくて、この身がある”私”、今ここにいる・あるこれが”私”と言う事はできるのだけど、頭の中に入って考えると、それはいつも違う表情をしているし、今これを思っている”瞬間”に私・自分と捉えるなら、自分に意識を向けた時に”私”がそこに居る。そしてそのいつも”移動している”のが全て、「私」である意識。

そんな風に感じている…、何も特定し、決定した内容じゃない。


昨日のラジオでいつもの様に、私の感じる”シンクロ”に関しての捉えられる一面を話した事で、またアタマの中は少し広がる―――、メモから。

偶然にしての頻度が高すぎる→しょっちゅうあればそれは、仕組み、通常。仕組み(通常)であれば必然であって、”偶然”と”必然”はここで繋がる。つまり、自然は偶然(シンクロ)と、機械的・仕組み的な必然(当然)は、つながる。しかも、機械の方が分かりやすい(のかもしれない)。

逆に言って私は、自然的なシンクロをどこか優位に置いていたけども、機械的なそれも明確に区別することはできなかったという事、仕組みから考えれば。

自然のごく一部の見えやすい機械的なシンクロは、情報の場としてとても見つけやすい。具体的なモノが必要なのでなく、その背景側が必ず必要。

(ラジオ絡み)
機能としてのハタラキは、人による感情・思考などの善悪判定や好き嫌い等は一切関係ないから、「(あなたが)そう動作した、行動した」というただこれだけ。基準は”動作”という結果のみ。

そう考えると、”人”との差がそこに大きくある事も見えてくる。機械という発展進歩した存在であるようで、その中身は本能・動物的動きの仕組みを活用しているもの。

この思・考の持つ私たち人が、それを見落とすことが非常に多い現代のため、分からなくなっている(見えなくなっている)。

「動き」が基本。
そこから見ると、言葉はオマケ、補助的サポート。

ここでも私たちの在り方は、世界という大きな仕組みに逆らって存在している。

・・・ 

大分言葉が飛んでいるので、少し埋めるように書いてみます。

まず最初に、自分の中の、人の考えることの”矛盾”と感じるものから。「シンクロはいつも普通に起きている」と以前より表現していながら、実際の”受入れ”の反応では、全てをそう受け取っている訳じゃなく、自分の中で”判定”し、”人工か自然か”という事に線引きをしている。その結果、私の中で、「自然に起こるものが優位だ」という思いがそこにある事を感じた。

だけどよく考えてみれば、”シンクロ”の状態という条件で観た時に(自分の判定でなく)、そこに優劣の何かがあるのではなく、無限の広い世界を対象としているか、言語(空間)という狭い範囲を対象にしているかという違いがあるだけで、仕組み的な差をつける必要のないものと感じた(勝手に私がそう捉えていた)もの。


そして、”具体的なモノが必要でない”とするのは、人が目を通した時(読み取りをする時)というのは、何らかの判定・判断をしていることが殆どで、機械によるそれらは、一段上のその判定のない”上の括りとして”現しているとすれば、例えば(個人が思う)善悪の”善”を人は望むわけだけど、その対は、ある内容においては”セット”となるので、反対の”両方”がある状態が「かえって正しい判定」という事になる。

人の好み(感情)、善悪判定など人特有のそれらから離れた状態は、機械の働きの一部の仕組みとして可能だろうと思った。

ひとつ上の次元で考える事に慣れていない人という存在、その目線でみると、これはとても不快だろうと思う。逆に言うと、それだけ人は、”具体的”なものへ寄っている状態が常にあるという事。

同じ機械でも、その大きな”偏り”をプッシュするものもあるので、あくまでも、シンクロという現象から観ていった私の見方なだけで、これもほんの一部のこととなる。


”動作”という動きが基本。言葉は非常に大切なことは分かるのだけど、身体を使って行われている動作は、無意識に強固にやり続けているパターンとして、その個を確実に現している。

ワン達との生活をしていて、これに多く気づかされることがある。言葉を交わさない”結果”という動作・現象を通しての情報伝達、それによる学びをされてしまう(^-^;

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!