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差を取っちゃダメ?

力があるから。

私達は本当に、当たり前にできる事って気付かないし、力を使ってるとは思わない、ですよね。

「当たり前に食べる」。ここにしっかりと飲み込むという力を使っています。意識せずとも働いてくれている体の凄いこと、凄いこと。「ありがと」だよね。

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たまにノートに走り書きしたものをペラペラとめくる。記事にしたものはレチェックやバッテンで消している。

残っているものを目にして、書こうと思えば記事にして、その氣にならなければ、そのまま放置する…書こうと思ったコレ。そういう流れになってきた。


私の考え方。

先に「差」を取ってはダメなのね。「差」を感じて気づくのだから。元々持っている人より、「ない」と思っていた人の方が世界は変わった!の感動は大きくなるでしょ。

だから「ネガティヴ・マイナスが悪いじゃない」と表現しているのね。逆に、ポジティヴ・プラスから自分のマイナスに気づいた時、これも気づきになるけど、感覚的には派手な感じはない。

「うわ~~、なるほど…」としんみりな感じ(笑)

パッと明るい気づきに対し、あ~~という深い感じ。だから確かに陰と陽と言う現わし方はその通りなんだね。善し悪しじゃなくて陰と陽だね。


暗い所から明かりが見えたその明かるさ、「パッとした気持ち」と、輝かしい場所から見えた黒い所「うわ~( ゚Д゚)」の深~い気持ちとね。善し悪しじゃないでしょ?

そして、「悟り」は始まりに立ったというだけでゴールじゃないから、その意味で、【人として生きている間に「悟った」はない】と思っている。

生きている限り続く経験、そこから得る悟り。終わる事はないわね。(他)人を見ていると、よく分かる。

主人はもっともな事を多く言う。だからたまに「この人すごいなぁ」と思ったりするけど、行動を見た時に、それが血肉になっているかどうかは全く別の話で、見ればすぐ分かる。


そしてそれは、私も同じ事。自分が「考えの中」そのものにいる時、自分の姿勢が見えていない時は多々ある。これに距離を開けて自分を観るという事が、客観で、俯瞰で、他人を見るように観れるわけで。

「あ~、傲りだな」と感じたり、「氣が随分入ってるね~」と感じたり、「こんな事書いたんだ(思ったんだ)?」と色んな自分を観ていく。

何を、どんなルートで行こうと、間違いはないけども、下手に「悟った」と思うとその中から抜けだす事に少し苦労するかも。


「ここまで分かった、まだ知らない事がある」という無知の知と共に生きる事で、少しは賢く見てもらえるのかもしれない(*^^*)

ワンネスも同じ。「一つ」と思い込む前に「個」をしっかりと見つめる作業は必要。知識をたくさん持っていても、経験で追い付かないと血肉にならない。

上辺を撫でたスピリチュアルブームから、大分深くまで探っていく精神世界になってきている。現実世界だけでは説明が付かず、「視えない世界」を併せて考えないとムリが出てきている。


こうして現実世界から精神世界を、あちら側からこちらを。少しずつ当たり前に「差取り」がなされている。色々、合わさっていくね。




「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!