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深い”自分”との出会い
物心ついた頃に、何となく「自分」という人は”いる”と、自身が自覚する・しないは様々なんだろうけど。
出来上がるんだよね、明らかに自分は。
持って生まれた血筋もあって、それは意識などせずとも、家族とそっくりだなぁという様な、「同じである事」にビックリした経験も私にはある。
親の影響を受けたという”自覚”のあるものなら、それを問う事はできるけど、無意識に知らずに同じ動作をする…、なんていうのは、
降参してふぅっと上がる
ここ数日は、諦め・手放しなどのような事に触れたのだけども。
この”状態”に入る(なる)段階も一つな訳じゃないなぁ…と思って。
あぁ、そうか…と気づいてそうする状態はまだ”硬さ”があるのだと、次の段階を実感してそう思う。「笑ってしまう」に近い状態。もう、(ほぼ)完全に自分の中の勢力が入れ替わっている状態があって、”降参”してしまうのだろうね、今までの自分が(笑)
この時には「自分の思考」の範囲
目の前に集中していく事から
(ある弁護士さんのコメントが記事にされていたものを読んで…)
そうなんだよねぇ…。
予測・憶測をしたら「(ここから暫くの間)外れる」ことで、”真に目の前を見る”という事に集中させられるかもしれないね…。
それは、”現場”を目にするという事、圧倒的に情報との差がある事などを、今あるこの現場から突き付けられることで、自分が観念していくというか、小さな自分が手放されて行くという様な、そんな状態ができ
基本は”クリーニング”すること
そうか…。
あぁ、そうか…。
と、分かっている(はず)なのに、”意識”はやっぱり分かっていない事を、この自分の中での「そうか…」のくり返しで漸く意識側に浸透してくる。
意識とは自覚される、”そこに立っているもの”という感じがあるけども、言葉では普通に使っているここでの「意識」は、どちらかと言えば無意識の意味に近い…、というよりそうだと、この状態から言える(みえる)。
今まで一緒に括られていた
対象から”私”を外す
火曜日の晩、眠る前には、「そうか…、その人の”ひとつ”ができ上って、また少しずつ壊れて動きがバラバラになるんだ…」と思った。
このひとつは、個におけるそれ。誰かの機能とは関係のない、その人におけるひとつの形を形成し、再びその繋がりがバラけてゆき還っていく。
ただそんな風に思った。
・・・ ・・・ ・・・
そんな事を思うと、やはり逆のことは浮かぶわけで、「いかにこの”通常”を保てる状態という
意識を開いて行うこと
動物的な動き・生き方として、それは引き継ぐとなしに引き継がれる名残。
その名残が残るかどうかも、種による引継ぎか…?
・・・
私は、遺伝(子)のことは分からないという前提で書いて行くのだけども、犬のある動作を表した表現を目にして、世界は”人”の中へスライドした。人と犬のそれぞれである存在を、分けずに”どちらにもそうある”事として重ねて視ている。
家の中ではしっかりと排泄をするのに、外という
アウトとイン、ラグと
(少し前に)
他を見た方が早い→自分が自分を知るのは後、という様なことを書いた。
自分も”同じこと”をしていても、それは”他者”の事と思ってしまう…。いや、これでいいのだけど、これじゃない時の話で進めている体(笑)
入・出力の切替え、機能の話よね。
自分という”これ”が、外に何か出力した「後」、それを見る(目にする)ことは、自分を見ることでも”他”と同じ扱いができる。その時”これ(自分)”の
状態によって決まること
まだまだ「自分」が膨らむ状態がある。
その時、その状態で、”先々の目指すコト(所)”を実行しても、まだ十分に膨らむ自分の余地があれば、必ず膨らむ。
十分にそちらに満足し、自然な流れで切り替わる。切替えという意識さえそこにはなくただの流れ、成り行きとして、その状態は変わっていく。
(メモより)
補足どころか説明が必要な内容なので、細かくしていく。
「自分と自分以外という他の存在」の、両方を観