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世界の共同主観的存在構造

‪"哲学が、そしてまた諸科学が、隘路を打開しつつ新しい途につくためには、旧来の発想法の地平そのものを剔抉し、それの限界性を見定め、それを端的に超克しなければならない。認識論の新生が課題となるのも、かかる問題圏と射程においてである"1976年発表の本書は【近代の主観ー客観の二項対立論】の超越を目指した古典的一冊。

個人的には、著者が生産性のなさが指摘されていたマルクス主義を蘇らせて当時の左翼の熱狂的な支持を集めていたと聞き。ちょっと触れてみようかな?と手にとりました。

さて、そんな本書は著者の東大での卒業論文をもとにして、マルクス、エンゲルスの思想、フッサール、ハイデガー、そしてサルトル、デュルケームらを引き合いに出しつつ、近代的世界観『主観-客観』の破綻、そして【自他の共同主観的世界観への移行】を饒舌かつ独特な文体で著者なりに?わかりやすい様に様々な身近な例え話で説明してくれているわけですが。

専門家ではなく、また哲学も必要上から簡単に流れをおさえているくらいの私の理解力では『中性的世界観が生物をモデルに万物を理解』『近世的世界観が機械の存在構造に定位した』(産業化による脱魔術、人間主体?)そしていまや『言語存在の究明を通路にして新しい世界観的な視座が模索されつつある』といった流れは単純に刺激的ではあったものの【やや強引な印象かつ図形などのフレームワークがなくて終始難解】な印象でした。(感覚的にはそれでも"わかる"のですが。言語化しにくい)

とはいえ、そして誤解をおそれずに、著者のマルクス理解も傍に置いて読後に思ったのは、ポストモダンと言われてから随分たつ現在。では【近代的な感覚から果たして私たちはいかほど次の段階に進めているのか?】という疑問でした。なるほどAIやVR、ロボットにブロックチェーンといった技術進歩は目に見えて感じるものの、かえって多くの人にとって【脱魔術→魔術の時代に逆戻りしているような感覚】もあるように思われる中、著者が序文で指摘している『諸学の停滞』また、その中で若かりし時の著者が【なんとかそれを更新したい】という意気込みはなかなかに伝わってくるものがありました。

戦後日本哲学の古典として、また日本人によるオリジナリティ溢れる哲学論考に刺激を受けたい人にもオススメ。

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