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私と古本屋

子供の時はとにかくいじめられた。その一つの理由は転勤族のサラリーマン家庭に生まれたことで、北海道から九州まで学校を転々とする中で容姿が優れるわけでもなく、かといって勉強ができるわけでも、スポーツができるわけでもない取り柄もない地味な私が子供の集団特有の残酷さでみんなにとって「都合の良い標的」にされた。というのもあるのだろうけど、まあ、率直にいって自ら集団に溶け込もうともしない「私自身の消極性、性格」にも大いに起因する問題があったのだろうなと、随分と時間がたった今は冷静に思ったりもする。蹴られたり、教科書破かれたり、黒板に悪口書かれたり。。書いていると、それでも自分の奥底の記憶からあの時の怒りが何十年かぶりにドス黒くふつふつと湧き上がって這い出てくるものがあるけれど。危ない危ない。ノーサイド。ノーサイドだから!と私は私をおちつかさせる。

さて、そんな孤立していた私だったので漫画や映画のように手を差し伸べ、一緒に遊んでくれるような心優しい友達など当然に現れませんでしたが。いじめられた苦くドス黒い記憶以外として私が少年時代にポツリと思い浮かべたのが、帰宅途中にあって毎日何時間も立ち読みを許してくれた居場所としての古本屋の存在。当時の私はそこに置かれていた子供向けの「コンチキ号漂流記」とか「宝島」「海底二万海里」などのいわゆる冒険ものを見つけ手にとっては、登場人物と自分を一体化させることで「自分だけの居場所」を避難所的に空想世界の中で見つけていて。読み終えた後には必ず「世界の七不思議」とかも一つ一つ調べては「いつかは冒険家になって実際に世界中を巡るんだ!」と興奮し大いに気持ちを湧き立たせたものだった。もう随分と色褪せぼやけた記憶になっていますが、それでもあの時の気持ちは今になってもカラフルな映像と鮮烈な感情を伴い、こちらの記憶は打って変わって私にはいつでもとても心地よい。

「古本屋」そう、随分とお世話になってはずなのにもうお店の名前も思い出せなくなっていて、また店長さんのことも残念ながら同じく思い出せないのですが。それでも存在として、まるで冒険ものの主人公たちが隠されていた煌めく財宝を見つけるかのように、私の記憶の中で登場する古本屋のイメージはキラキラと輝いていて。おそらく少年時代の私にとっては古本屋に雑然と積み上げられていた本の一冊、一冊が「まだ見ぬ世界」との出会いをもたらしてくれることにうっすらと勘づいていたのではないかと思う。店内自体は薄暗く、本自体が使い古されたり、表紙が埃を被っているような状態になっていても、いつでも自分からめくりさえすれば「世界という財宝が輝いて迎えてくれる」そんなことを「あの時の私」は知っていたのではないかとすら思えるのだ。

と、そんなごくごく個人的なことをある時、現在は時の流れと共にいつしか薄汚れた中年のおっさんになった私は、何となく立ち寄った街の古本屋で子供向けの絵本を手にとった時に、身構えるヒマもなく「少年時代の記憶」に不意に引き摺られてしまったのです。突然に懐かしくキラキラとした大切な何かを誰かに思い出すように導かれたかのように。もっともその時があまりに突然すぎて、言葉は何も浮かばず、呆然と佇みながら。

そして、それが街の本屋はどんどんなくなっていく逆風下(そんなことはわかっています)紙の本が電子書籍に置き換えられていく中(そんなこともわかっています)そして、そもそも子供たちはスマホやゲーム、YouTuveに夢中で本を読まなくなってきていてもetc..(ああ、わかっていますよ!)それでも今、私自身が今度はいつのまにか「古本屋の店主」になっている理由なのかもしれません。これはもはや理屈ではありません。でもおそらく。あの時のある時の瞬間的な出会いが「少年時代の私」と「現在の私」を時間をひとっ飛びに越え確かに結びつけてくれたと思うから。それが何より今の私にとって大切で揺るがない答えだと思えるからです。

少年時代に「古本屋」に救われた私は、今「古本屋」として一生を終えたい。そして自分の名前なんかは忘れられてもただ「古本屋」として、古本を手にしてくれた誰かの記憶に少し残れば。それだけが何より嬉しい、ささやかであつかましい今の私の願いです。

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