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啓蒙の弁証法

"われわれが胸に抱いていたのは、ほかでもない。何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか、という認識であった。"1947年に発刊された本書はフランクフルト学派の代表作、脱魔術・楽観的な西欧の進歩史観を問い直そうとした名著。

個人的にはホメロス『オデュッセイア』を読んだ後で。と、ずっと未読のままになっていたのですが。今回ようやく積読の海から拾い上げて手にとりました。

さて、そんな主にユダヤ系の知識人・研究者が集まって1923年にフランクフルトで成立するもナスス台頭により閉鎖され、多くのメンバーが亡命した社会研究所(フランクフルト学派)の所長であったホルクハイマーとアドルノの共著として、第二次大戦中に亡命先で執筆された本書は、啓蒙の弁証法とは何か?に始まり、『西欧文明の原テクスト』としてホメロスのオデュッセイアを検証して【人間の自然支配、自己の確立】が起きたこと。またニーチェのルサンチマンやサドに触れて『啓蒙』には、しかし個人が良心と理性にしたがって行動する一方で、統治者に支配されやすい環境が創られる【個人の拡大と矮小という相反する特徴がある】とした後で。

事例としてアメリカでは【『文化産業化』によって人間が画一化され、歯車の一部になってしまっている】とし、最後に啓蒙された大衆の【羨望の裏返しの憎悪がユダヤ人に向けられている】と『反ユダヤ主義』(ナチス台頭)について書いているのですが。

結局はオデュッセイアを読まないままに本書を読みすすめたので(すいません)オデュッセイアの神話を読み解いていく第二章。に関しては冗長というか。率直に言えば退屈にすら感じてしまったのですが。比較して第四章。人間の理性が非合理から解放されたにも関わらず、利潤を追求する資本主義下の『文化産業』。規格化された情報商品によって画一化され【労働に順応させらるように仕向けられ、批判的な視点が阻害されている】といった指摘には、今の日本社会にも未だ通じる気がして理解しやすく、また刺激的でした。

また本書に関してはやはり、第二大戦における【なぜホロコーストの様な出来事が(野蛮状態を乗り越えたはずの)西欧文明社会で起きたのか?】というユダヤ系知識人当事者たちの切実な問いが時代性をもって迫ってくるのですが(もちろん、それはそれで重要な事ですが)人間理性主義が引き起こし、より深刻になっている環境破壊・汚染。そして2度の世界大戦後も未だなくならない争い・虐殺と、人類史を俯瞰的に眺めた時に。果たして【我々人類はより良く進歩出来ているのか?】と『普遍性のある問い』を投げかけられている気がしました。

フランクフルト学派の代表作、名著としてはもちろん、近代化(西洋化)にモヤモヤを感じている誰かにもオススメ。

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