うつつを表す
2024年。
今年は1日から色々なことがあった。
“いつなにが起きるかわからない”という視点で見ると、悲しいほどに等しく全ての人にその可能性がある。“今日を人生最高の日にしよう”という、成長主義のマッチョベンチャーマンが発する言葉も、あながち間違いじゃないと思ってしまう。
実家に帰り、両親や祖母が少しずつ、
しかし確実に抗えない老いを実感していく。
より身近なところでも感じる、未定の明日への寂しさや不安。遠い場所での災害や事故もあり、よりそんなことを強く感じる年明けだった。
さて、Turns blueのラストライブが近づいている。
何事も選択をした瞬間は自信に満ちているが、
後から色々な葛藤や不安がやってくる。
“後悔なく”、とか“迷うな”という言葉には一生抗っていきたい。これでよかったのか、といつまでも思いながら、その中で選択を一つずつ納得のいく形にしていく。そういうリアルなさまを、これからもさらけ出していける強さを持ちたいと思う。
年末年始にあたって、表現する、ということは自分にとってどんな意味合いがあるのだろうと改めて考えた。自分はなぜ、表現することを生きがいにしているのだろうか。
とりわけバンドについて考えると、バンドは人の集合体で、合流や離別が発生する。そして集合体によって目指す場所や方針が大きく異なる。つまりは、バンドにおいては、やりたいようにやればいい、が正解なのだと思う。
Turns blueの初期は、承認欲求とか、俺の叫びを聞いてくれ的な、枯渇した思いしかなかった。
それが捻転していくと、「売れる」「売れない」
「意味がある、ない」みたいな二項対立でしか、物事をはかれていなかった気がする。
でも、バンドなんてやりたいようにやればいいんだ、入ったり出たり、浮いたり沈んだりもあって、基本は白と黒の間を漂っているなまものなのだと、
この数年で身をもって知った。
今自分がバンドに目指すもの、それは、
バンドなんてやらなくていい世界で、あえて自分で“バンド”という居場所を作ってそこに座り、
一生懸命旗を振って、共感の輪を作る。
そして壁が現れたらみんなで悩んで前へ進む。
要は僕は音楽を通して、「仲間」を見つけたい、ということなのだろう。
共感をするものの主語は、様々でいい。
音楽性も、歌詞も、noteも。どこか一部でいい、
それは受け手が好きに切り取って、決めればいいことだと思う。そしてこの場所は違う、と思うときがきたら、そっと出ていってもらえればそれでいい。
実際に社会に出て数年経って、労働の中で「共感」を形成することはあまりに難しいことや、
(できるけど、“根回し”をはじめとする不必要で煩雑な手続きが多すぎる。)昨今の景気などもあって生活や労働が苦しみに接近してきていて、みんなが自分のことを考える余裕しか無くなってきていること、そういう様を見たことや、ここ数年の他者とのコミュニケーションの中で、より表現への想いが強まった。
だからこそ、感覚的に「ウマが合う」環境を作ることの尊さに気づいた、というところもある。
これはメンバーだけでなく、聞いてくれるお客様へも同じ思いだ。きっと社会や学校や、バイト先やいろんな環境で、孤独を感じている人は少なくないのではないだろうか?
おそらくきっとこれからも社会は自分偏重、自己責任の方向であることに変わりないと思う。僕はそういう価値観を否定することなく、でもそことは全く違う場所に、そういったメジャーな価値観に違和感を感じる人の受け皿を作りたい。お客様もメンバーも垣根なく、表現を介してみんなで悩んで、みんなで喜び、少しずつ前へ進む。そういう気持ちだ。
昨年末に改めてこの言葉を見返した。
大学のゼミの教授が、いつだかの卒業式で読んだ名文の一説だ。もし今、自分の価値観が少数でオルタナティブだったとしても、馬鹿げた社会の中で生きながら、自分なりの旗を掲げ続ける。
改めて背筋が伸びた。そしてこういう環境で学んだことは間違いじゃなかったと改めて思ったりもした。
常に今自分が感じることに正直に、仲間を探して旗を振り続けること。そのためにも音楽を続けること。これだけは、一生をかけてこだわり続けたいと思う。
表現という言葉は、分解すると
うつつを表す、と読むことに気づいた。
2024年も、葛藤や後悔も全て抱えて、
なににも縛られず、フレッシュでオルタナティヴでリアルな表現を続けていきたいと思う。表現は自由が許された、数少ない場所なのだから。
僕は僕のやり方で、あなたはあなたのやり方で。
穏やかに着々と進んでいく一年にしたい。
読者の皆さんにも、いいことがありますように。
この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。