見出し画像

斜視

「お前はめんどくさいやつだからな」
先日ライブハウスで言われた一言。誤解のないように注釈するが、この発言自体は愛があって、決して嫌な思いをしたとかではない。

ただ、この言葉の意味はずっと考えている。
めんどくさいってなんだろうなと。(その行為自体が"めんどくさい"が)

話は変わる。
人生で、ずっと目で追い続けてしまうほど影響を受ける人や面白いと思う人は、それほどいないと思うが、僕の中でその一人がお笑い芸人オードリーの若林正恭だ。彼の芸風や話術はさることながら、彼の「考えすぎる」生き方にシンパシーを感じる部分がある。

彼が「ナナメの夕暮れ」という新刊を出した。その冒頭に、
『疑問を持ってしまう人は「自分探し」と「社会探し」をしなければ、「生き辛さ」は死ぬまで解消されない。「めんどくさい人」と言われても、「考え過ぎ」と何度も言われても、この国を、この社会を、この自分を、解体して解明しなければ一生自分の心に蓋をしたまま生きることになる。』

自分は自分のことを「めんどくさい人」だと思ったことはなかった。
解体して、解明することにこそ生きる価値を見出していたし、考えすぎる位がちょうどいいと思って生きてきた。むしろそうでない人々に対してそれを補うくらいの気概で、考えすぎる自分を肯定していた。
肯定し続けた自分は「めんどくさい人」とも映るのか、と新鮮な気持ちになった。

考えすぎる人間は、あらゆる視点が身についてゆく。それは利点だし、悪い点でもある。考えすぎる人間は心の斜視になるからだ。

原理原則に還れば、「考えていること」は外化しないと他人には伝わらない。だから考えすぎる人はものすごい損をしていると思う。
考えている間は、そういう価値観のない人からすれば「停滞」になってしまうからだ。

でも僕からすれば、行動の一つ一つに深い思考に基づいた裏付けが必要だし、それが行動に対して何よりの馬力になると思うのだ。

彼らが思う停滞が、自分にとっては最も重要な「思考」の時間なのだ。
社会に出ても、ずっとそういう矛盾を抱えながら生きていくのだろうか。

少なくとも周囲にいる人々には、そういう自分をミリ単位でもいいから理解する土壌を耕して欲しいと思ってしまう。

まあ、これを読んで欲しい人にはどうせ届いていないし、こうやってエッセイのネタにしていること自体、よく思わないのだろうけど。

やっぱり僕はめんどくさい人間だ。

でも今僕は、人生の岐路に立っている。心の中にある斜視を何度も何度も矯正しようとして、「停滞」を吹き飛ばそうともがいているのだ。それの何が悪いのだ。

この記事が参加している募集

この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。