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近況/フラッシュメモリー/2022/07/13


文章不全鬱がまた手のひらで疼きだした。
京都造形大学の教科書を大野木啓人さんに依頼されて、アーティストたちにインタビューした。宮島達男、やなぎみわ、太田省吾、井上八千代という知りあいの関係者から、石原恒和(ポケモン)沢田祐二(照明家)まで、何十人とインタビューした。ちょうど聞く力が絶好調だった頃で…仕事としても集大成だったが…難しくて使えないよと京都造形大学の教諭に言われたのを記憶している。中で太田省吾が言っていた。太田省吾は湘南台文化センターでも仕事をご一緒した。『水の駅』初演の評を新聞に書いて、その書いたことを評価された。太田さんはずーっと心に止めてくれていた。どうやったら戯曲を書けるようになりますか、演出ができるようになりますか?という質問に___。好きな戯曲を三作書き写したら、戯曲を書けるようになったと。答えてくれた。身体を悪くされていて質問に素直に真摯に答えてくださった。(ちょっと確執もあった時期があるので…ちょっとびくびくしていた)確かにそうだろう。書き写すのは方法だ。模写もそうなんだろう。でも小説でも言われることだし、真実なんだろうと…。しかし、最近、小説を写すということを、少しでも文章書けるようになろうとして、少しやってみて気がついた___。何も技術を獲得できていないときに、自らすすんで写さないと始まらないのだ。つまり戯曲を渇望する手をもっていなければ成就しないのだ。書いたら得られる技術ではないのだ。ダンサーは…ボーカリストは…作家は…物心ついたときにすでにその表現の欲望をもっていて、それはまだ自分も意識していないかもしれないけれども…それがないと駄目なのだ。渇望する身体が、好きな作品、好きな作家を写す…そして写して一瞬にしてなるのだ。なれるのだ。もっと言えばなってしまうのだ。なれたらいいな…なんて不純な動機をもちながら写しても…ものにはならない。それに気がついて、文章不全鬱が来た___というわけだ。『仰天・俳句噺』夢枕獏/を読んでも、癌が身体で暴れている中で、[書く]ことを一時も放棄しようとしない手と身体の欲動が知れて、つくづく、自分何もないまま良く生きてきたなと思う。そして今どき、文章修業をしている自分の手を呆れて見たりする。

中川多理から送られてきた原稿に『二十六人の男と一人の少女』/ゴーリキーのことが書かれていた。山尾悠子の言う『新編夢の棲む街』の[妹本]のための中川多理の原稿。『新編夢の棲む街』(山尾悠子)に入らない/入れられない作品を中心に、纏める写真集。夜想のような編集も入っていて…中川多理の人形を持続的に見ていた書き手が原稿を寄せている。川野芽生、山尾悠子、清水良典、金原瑞人…最後に中川多理の原稿が入稿した。素敵なことが書かれている。示唆的なことが書かれている。作家の立ち位置から読まれている小説——。その視点は鮮やかに創作者のものであって久しく味わったことのない、冴えた才能を感じさせる。


俺たちはみんなで二十六人いた___いた…というより…じめじめした地下室に二十六台の生きた機械が閉じこめられていた…ということだ。そこで私たちは朝から晩まで粉をねっては、巻きパンや堅パンをこしらえていた。この地下室の窓は、湿気で緑に苔むした煉瓦の凹みにとりつけられていた。その凹みはというと、窓を前にして掘られたもので…窓枠には外側から目の細かい金網がはってあり、しかも硝子には粉埃がいっぱいついている。

俺たちは、煤と蜘蛛の巣に覆われた低い天井が頭をおさえつけるように垂れ下がってきている、この石の箱みたいな地下室でくらしているのは、実に息苦しく、窮屈だ。汚点(しみ)と黴でいろいろな模様が浮き出ている厚い壁…に囲まれた…この中にいると、俺たちは胸がむかつき、重苦しい気分になる…。

赤い炎の照返しが仕事場の壁のうえに踊っていた。______それはあたかも、声をたてずに俺たちを嘲笑っているかのようだった。

一人が歌い出すと、俺たちはみんな、はじめのうちは黙ってそのわびしい歌に耳をかたむけている。頭を押さえつけるような低い天井のしたで、その歌はちょうど灰色の空が鉛の翼のっように地上ひくくたれこめている、じめじめした秋の夜、曠野のなかでもえている小さな焚き火の炎のように、いつかしらだんだんに弱まり、やがてしずかに消えてゆく。と思った瞬間、ふいに別の声がそれに合わせて歌い出す________
二十六人がみんなで歌う。ずっと昔から歌いなれた、よくとおる高い声が仕事場をいっぱいにみたす。
~太陽を失って生きている人間のおもくるしい憂鬱を、奴隷の哀歌を、うたっているのだ。こんな風にして、俺たち二十六人の男は、ある大きな石造りの家の地下室にくらしていたのだ。


俺たちは中庭に______冷たい雨の下、太陽のない灰色の空と泥土のあわいに立ちつくしていた。…やがてそのうちに、俺たちは…無言のままに、自分たちの湿った石の穴倉に戻っていった。陽の光は、あいかわらず、これまでと同じように、俺たちの窓に射すことはなかった。ターニャは、それきり俺たちのところにはやって来なくなった!…。(二十六人の男と一人の女○ゴーリキー○中村唯史/二十六人の男と一人の少女○ゴーリキー○上田進・横田瑞穂)


『二十六人の男と一人の少女』を語る中川多理は、秋に出版される写真集を読んでいただくとして…この一週間に次々と[符丁]が並べられていく。渡辺えり『私の恋人』原作『私の恋人』(上田岳弘)、亀山郁夫『ドストエフスキー』…全一性というロシアの概念…。まさに符丁だけが朧にあって…書くことすら出来ない…掴むこともできない…その何かを…ずっとずっと追っている。筒井康隆は二十六人で一人と言った。(『短編小説講義』)確かに括ればそういうことなんだが、一人一人であって、それが二十六あって、それで一人称になるということで…良く言われる一人称複数ということなんだけど…ちょっと、かなり違う感覚がある。ちなみに上田岳弘の『私の恋人』は一人称神と言われている。極端に追いつめられた状況で起きる感覚…暗く湿った地下室に押し込めれた私たちの頭脳は…フィルターバブルによって支配されていて…たとえば自分のGoogleから提示されるのは…F1ペレスの希望的な観測記事…暗号資産の暴落…ウクライナの戦況(ちょっとまぬけなロシアの戦線、プーチンの暴走)…珈琲の淹れ方/新規出店情報…川野芽生の記事…坂本龍一…このあたりはどう?という記事1に対して3くらいのフェイバリットな記事。逃避的快楽を想起する記事が、自分の無意識を高揚させる。一方、工場の地下…陽の光の射さない…そこにいる兵士…匂い…戦争の…人間の…。TVで工場から投降するウクライナの兵士が写ったことがある。女性兵士が犬を連れていた。凛としていた。でも必要以上には凛としていなかった。すっとしていた。そのたたずまいを見ていると、フィルターバブルの恐ろしさを思う。人の思考はもともとそんなにオリジナルじゃないから…だけど、いまの自分は、どれだけ思考を操作されているのか…わからない。二十六人が一人…プーチン一人をとめられない世界。プーチンは一人なのか…。その疑問は、そんな簡単な物言いにのせるべきものかどうか…文学は戦争を止められないかもしれないが…今目の前に、現れてくる[本]の群れは、何かを指し示しているような気がしてならない。できるだけ早く、深く、できればしっかりと[掴み]をしたい。

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