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裏浅草通信/日本最古浅草地下商店街/『オーセンティック』


2011年3月12日。ボクは、浅草地下商店街で『オーセンティック』(ベトナム料理)にであった。
前夜、浅草橋のギャラリーに帰宅難民を何人か受け入れ、彼らとともに朝まで過ごし、12日、花川戸の事務所に戻る途中…松屋の地下から[浅草地下商店街](そこは日本最後の地下商店街だそうだ)に足を踏み入れた。地下街が潰れてやしないかと…逆流した下水のような臭いが漂うなか…それはいつものことなのだ…水が引いた跡が潮目のように白い汚れになって床に残っていた。まだ少し水溜まりもあって、店外に置いてある冷凍庫たちが、ガチャガチャと乱れ、人の気配はなかった。レトロゴーストタウン…か。その時、見慣れぬ店を見つけた。カップルとみえる二人が掃除をしている…思わず立ち止まったボクに、男性の方が「3月10日に店を始めた…んだけどね…」とぼそっと言った。(沈黙)…。ボクは何とも言い様はなかった。なんと間の悪い…。だけれども意外に、めげた様子はなく…二人で何かの修羅場をくぐって、ここに来たような凛としたものを感じさせた。(それは僕の思い込みで、現在に至るまで二人のここに来るいきさつを聞いたことはない。…)「明日から再開するけど…お客さんが来るかどうか…」と、またぼそり…「あ、僕来ますよ。」とすぐに応じた。地下街でベトナム料理!以前は『ミュン』という新宿と本郷三丁目にある店に通っていた。ところで、ボクは、驚いてもいないのに、会話の前に、[あ]をつけるの癖がある。今、はじめて分析するけどずっと、人の顔色を窺って生きてきたので…主に両親だけれど…顔色をみて今何をいったら良いのか判断するための、タイムラグをとっているのかもしれない。[あ]を云っている間に、判断を誤っていたら言葉を変える…その[あ]なのかもしれない。単に人見知りで人と話すのが上手くないからかもしれない。代わりに[あ]の後ろにつけた発言は、必ず実行する。なので翌日、店に行った。ほんとに来たね。ご主人はそんな顔をしていた。


3月13日。『オーセンティック』のベトナム料理は、ほんの少しフランス風に洗練されていて、あとは現地のままだ。洗練は…ベトナムを植民地にしていたフランスの香り…ご主人フランス料理も極めたらしい。それまではベトナム料理といったら『ミュン』という本郷三丁目と新宿にある店に通っていた。…より、かなり美味しく本格だ。豚挽き肉のレモングラスそぼろご飯と、ブン・ボー・フエ(牛肉の特製激辛汁麺)…あと肉とか魚の料理を頼んで…チェー(デザート)も抜群に美味しい。通うなと…メニューはとりあえず制覇しないと…(何か美味しいものを見つけると飽きるまで10日くらい通う。そこから冷静にまた食べはじめる)

それから。もちろん通いつめた。そしてベトナムをいろいろ教わった。二人は休暇をとってはベトナムに旅行する。良く写真を見せてもらって屋台に並んでいるものを説明してもらった。香り米とボクが勝手に呼んでいる、ジャスミンライス。本当に香りが高く美味しい。ベトナム、タイの高級米だ。(タイ米が不味いとか云っていた時代があるが、冗談じゃない。ほんとに美味しい。文化の違いだ。牛のさしとか米のふわふわとか…特殊な磨き上げかたをする。今でこそないが印象派風厚塗り油絵とかね…良いんですよ日本の中では、独自の価値を創り上げても…でもそれをもって元祖の他者を否定しちゃいけない…というかそれはあんまりバカみたいだ。)蓮茶もにもいろいろな種類があるのを教わった。華や蕾を丸ごと使うお茶もある。お茶…もちろん美味しい、一番安いのでも。それにお湯をさしてもらって、延々飲みながら食べる。ベトナム料理はタイ料理に比べて、辛くないというが、そんなことはない。『オーセンティック』のブン・ボー・フエ(牛肉の特製激辛汁麺)は、強烈だ。食べられないに近い。美味しいんだけどとにかく辛い。斜め前にあったタイ料理屋『モンティ』の辛さを越えている。『モンティ』も基本辛い。抑えてもらって、OK、OKと云われて、これ?ということがたいがいだ。正月にはベトナムのお節料理もあって、本当に楽しくて美味しくて、ベトナムが大好きになった。M.デュラスも南ベトナムだっけ? そうこうしているうちに、大人気店になって、予約をいれないと入れなくなった。それでも機会をうかがって通っていた。結果、回数は減った。

浅草地下商店街の夏は暑い。暑くて狭い店の調理場でご主人は、少し不機嫌な顔になる。奥さんが鷹揚に旦那と客に気を使う。良い感じだった。でもほんとに身体を心配するほどの暑さだった。古い商店街には冷房の施設がなく、今から組み込むのも難しいからこのままと云われたと、苦笑いしていた。小さな扇風機だけ。ときどき地上に行って息を継いでいた。そして本当にご主人は病に倒れた。その間、看病しながら奥さんが料理をしていた。旦那と違って、材料を奇麗なカットをするような感じで、これまた別種の美味しさをもっていた。(同じ料理でも…)どっちもどっちで美味しかった。(手によって違う。これが料理の醍醐味だ。)そしてほどなく旦那は回復して店にでるようになった。その復帰の日に、「あなたは…(今は名前で呼ぶけれど…)身体とか悪くないんですか…。」と聞かれた。「今のところ」と…僕は答えた。ご主人がそう聞くということは、やっぱり身体を壊していたんだと知れた。お互いに歳を探り合ったら、どうも同い年らしい。「身体には気をつけてね」別れ際にまた云われた。

それから『オーセンティック』は、ご主人の身体を楽にするために、住居の近くの松戸に店をだした。(不肖まだ一度もうかがっていない)暫時、浅草は閉店するとのことで、一瞬、パニックになったが…まぁ松戸に行けばいいのだからと自分に言い聞かせた。…しかし松戸にお客さんが定着しなかったのか、浅草の客が必死に引き止めたのか、分からないが、それから両方店を開け続けるという過酷な状況をこなしていた。ボクは、ふらっとその日の行くところを決めて食べにいくのがが好きで、浅草にいるようなところもあるので…少しだけ足が遠のくようになった。でも行っていた。そしてコロナになった。店の狭さと…だいたいからして浅草商店街の入り口に、通路まで机と椅子を出して大騒ぎする居酒屋があって、都の勧告などそっちのけで12時超えてもわぁわぁやっていたので…そこを通過して、開いているかどうか分からない『オーセンティック』に行くのは、ちょっとした困難で…行くのを控えていた。

2022年11月5日。コロナは開けていないのに、浅草はもう解禁状態で、食べ物やのパーティションは取り払われ、大声で酒を飲み交わす輩が跋扈しはじめた。なぜだか浅草商店街入り口の、無頼居酒屋のシャッターが閉まっていて、それを見たら無性に商店街に入りたくなって、足を踏み入れた。踝まで水に浸かった。何故だか商店街には、水が滲みだしていて…いや滲みだすというレベルじゃない…水道管かなにかから大量に噴出したあげくの…というぐらいの水量。通路を覗くとオーセンティックに灯がついていた。[あっ]と、思って店にいったら人がけっこう入っていて…営業中だった。いっぱいだな…またにしよう。やっていて良かったな…と思ったら、奥さんがひょいと顔をだして、「外にたべるところ作りますね」と、テーブルと椅子を出してくれた。そぼろご飯と白いトウモロコシ炒めと…牛肉のベトナム野菜炒めと…蓮茶と…あと一二品…。いやー、美味しい。変わらず…美味しい。料理を出し終わると、旦那がカウンターから出てきて「久しぶり…」「ですね、すみません」最低2年はあいている…もっとか…。「この水は?」「どこからでてるか分からないんだって」「えっ」「毎日、何台もの掃除機で吸ってバケツで捨ててるんだけど、翌日また貯ってるんだよ。周りの店もどんどん辞めてるし。新しい店はいい加減にテナントと契約しているから煩いし、カラオケとかもともと禁止だから…でもほら」奥にあるトイレの前の、居酒屋が外国人多数を巻き込んで、飲んで大騒ぎしている。通路を占拠するようにして人がたくさんいる。ああ…。と、声に出さず溜め息をしたのは、自分なのか旦那なのか…。いかんな…。とてつもなく。商店街の全体がまずい感じになっている。浅草地下鉄商店街には、地下鉄銀座線ができたころからの浅草らしさのほこりが堆積している…埃は良いも悪いもあるから浅草というもの全部を体現している。ボクは、ぼーっと絶望的な気分になって黙っいた。いつも料理を出し終わると出てきて、場所の愚痴だりいろいろ云っていたが、その怒りの口調の角が取れているのが気になった。そしてなんとなく呆然としているボク…旦那は、話すこと話すと、一番奥の大騒ぎしている若者泥酔グループの間を抜けて、トイレに向かっていった。紺と赤を組み合わせたおしゃれな越南風ファッションのご主人の後姿が少し縒れて見えた。大丈夫か?…いや、おそらくそう思っている自分も、猫背でくたびれた後ろ姿をしているんだろう…タメ歳だからな…。お互いくるところもまで来たもんだ。


新たに冷蔵庫を購入していたから『オーセンティック』はまだまだやる気だろうから心配しないが。さて、この十年____。きつい十年だ。災禍が明けると人は、(もしかしたら日本人は…)記憶から少しずつ厭なことを消していく。3.11の直後から…回復どころかさらに劣化している商店街の姿をみると…その日本人が見てとれる。もちろん自分も含めてだ。劣化しているのは文化全部のインフラで、自分もギャラリーと出版部門を開店休業状態にした。実際のところ、どう生きたらいいか分からない。この地下商店街だって美味しいものを作って、あるいは良いものを作って…よいお客さんをつけて…ということではどうにもならないところまで来ている。何かが崩壊している。自分のやってきたことも、いまやっていることも…浅草地下商店街の美味しい店の味も店の人たちも…今までのやり方の、[良い]は…効果が…そこに戻ってきた店主が、「とりあえず頻繁に来てもらわないと」…というような意味のことを云った。ぱっと、父親が病院でとりあえず時間があったらちょくちょく来てみてよ。来たらいなくなっているかもしれないから…と、言ったのをすぐに思い出した。そう云ってから父親は一週間で亡くなった。とりあえず頻繁に来てもらわないと…の、ニュアンスは、そうしないと立ち行かないということじゃなくて、もうボクが食べれなくなっちゃうかも…記憶にもっともっと刻んでおいてよ…というような感じに受け止めた。(違うかもしれないけど)そのとき、もうひとつの言葉が思い起こされた。坂東三津五郎さんの、中村勘三郎への弔辞。「いまでも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い。いたずらっぽい、あの目の表情。躍動する体が蘇ってきます。肉体の芸術ってつらいね…。そのすべてが消えちゃうんだもの。本当に寂しい…、つらいよ…」そして何年かして三津五郎さんも勘三郎さんの元へ行かれた。…ほっておいても無形のものは消えていき、それを覚えている人たちがいなくなったらほんとうに消滅する。(ボクはそう思っている)でも逆に云えば、それを覚えている人が生きていれば、記憶に残っていれば、その間だけは残っている。で、ふと思うのだが、天災や疫病とかの災害は、(処置悪くしておくと)記憶にも残す間もなく無形のものを消し去ってしまうのではないか。だからこの十年は、空白の十年どころか…崩壊の10年、それまでの先年を壊す10年なのかもしれない。地下商店街はずっとずっと汚れを溜めながらもその空気を保って世代を継いでいた。…そこに次世代の浅草の味が入植されてきて、今までの味と混淆していった。なのに。そうではないことが起きている。いや起きたのだ。
11月8日。コロナ『第八波』の警報が発令されて、再び警戒が要請された。数が未曾有のものになるかもしれない。

追伸。
2022年12月14日
 予約を入れて店に向うとお客はたくさん入っていて胸をなで下ろしつつ(よけいなお世話であるが…)メニューを頼む。見た事がないものも一つ入れて。


発酵のお魚?かな。すぐに食べはじめて、うんまうんま…。週末だけ、それでもどうにか定期的にはじまるらしい。店の中には例の地下道溢水の痕跡が。「最近はうちだけ酷くて…」と。大変だなぁ。店が終わって少しだけ歓談した。言葉には出さないけどマスターちょっとしんどそう。でもベトナムご飯の話になると、テンションあがる。以前、向かいにあったタイ料理の『モンティ』(ここ辛い。普通に辛い)とベトナム料理『オーセンティック』の辛さとどうちがうかで盛り上がる。浅草のタイ料理『ソンポーン』では、正月に帰省してこちらに戻ってくると、タイ仕様の辛さに戻って、とても辛いと、僕もタイ辛い話を披露。そうそう、こんな話も聞いた。サッカーの堂安選手…堂安という名前はベトナムに良くある名前らしく、日本に親近感があるベトナムではベトナム人ではとの噂が拡がったりしていて、新聞に堂安選手はベトナム人ではありませんという、大きな記事がでているんだと教えてもらった。二人でベトナムに行きたそうだった。身体が心配だから…むこうの病院はちょっとね…と苦笑いをしていた。何にしろ定期営業は大歓迎。またうかがってベトナム料理をいただこう。

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