見出し画像

ミて◆詩と批評◆第161号◆【特集・唐十郎】について。『ひみつの花園』

ミて161号は好評在庫ゼロになっています。しばらくはPDFで無料で読むことができるそうです。
http://www.mi-te-press.net/information/pdf/2301/mite_161.pdf
評判が良くてよかった。足を引っ張らないで…良かった。

ミてについての感想。


https://note.com/pkonno/n/nde81264a5d2c

【特集・唐十郎】・夜の帳の『秘密の花園』
掲載してもらった唐十郎の『秘密の花園』の原稿をここに掲載します。『秘密の花園』は何回か書いて、それぞれにポイントを違えてある。(自動的にそうなってしまう)。これが決定版的な一文かもしれない。文末に、別バリエーションのアドレスを載せておく。

 

夜の帳の『秘密の花園』


夜の帳の鬼子母神、裸電球に照された鳥居の向こう、其の一角。酉の市が硝子絵のようにぼやけて浮かんだ。都電荒川線の車窓からふっと見えた景色……。鬼子母神駅を降りるとしゃんしゃんという手をしめる音が……風にのって微かに流れてくる。(鷲神社や花園神社に比べれば、ひそやかに――。)鬼子母神境内に向う鎮守の森は、ざわざわと[予感]を誘う風を孕んでいる。気配が闇宵を刷いて……紅テントがひっそり見えてくる。もう芝居ははじまっている……唐組『秘密の花園』は、一〇月末、明大裏の猿楽町を皮切りに、金沢を廻って、雑司が谷・鬼子母神に戻ってくる三ヶ所公演。最終地点の鬼子母神は、今宵、芝居の人びとでさんざめく。
 『秘密の花園』は、泉鏡花の『龍潭譚』を下敷きにしている。鏡花は、明治・三陸沖津波が起きたあと、水のモチーフをしばしば使うようになった。明治三陸地震は、マグニチュード八・五、津波の高さ三八メートル、津波の高さは東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)までは日本最大の津波と記録されている。その爪痕は文学にも残されたということなのだろう。
 ただし鏡花は、直接に明治三陸沖津波をモチーフにしていない、他の口伝による洪水伝説をたよりに『龍潭譚』を書いている。水を纏う姉への憧憬――というのが鏡花の物語の屋台骨。
 唐十郎の『秘密の花園』にも、鏡花のいくつかある『龍潭譚』のモチーフは、使われている。姉(もろは)と戀人(いちよ)を重ねるところ、姉の乳房をまさぐるシーン……鏡花からの変成、唐版、人重ね。
 さて、唐組、久保井研の演出。最近は、戯曲に深く入り読み込み、役者同士の明確な対話によって構築する。唐十郎の戯曲は、唐十郎によっても抽出しきれない潜在部分を残している。久保井はその掘り起こし、明確化に挑戦している。
 しかしながら『秘密の花園』明大裏・猿楽町通り沿いでの最初の上演では、台詞のやり取り、役者の絡みに若干のもどかしさを覚えた。帰り際、樋口良澄に聞くと、同意しながらも「金沢から戻ってきたら、しっかりなっていますよ」とこともなげに答えた。それで、今夜、樋口良澄との鬼子母神・芝居道行となる。
 鬼子母神の紅テント、木々に囲まれ電燈光に…硝子絵のように浮き上がる。樋口良澄はいつものようにかぶりつきに、ボクは最後尾の席に陣取る。そして幕開き、開いてすぐにもできの良さを感ずる。声はすっきり客席に向ってくる。静けさにテントに、声が響いていき、役者たちは台詞を抑揚をつけ畳み込みあいながら、進めていく。ああ、ほんとだ。良い台詞の絡みになっている。
 『秘密の花園』の地下水脈、物語の根底にある水の演出も心に響く。……舞台の家の外にぶちまけられ続けるざばーざばーっという水は、線状降水帯や颱風のような息をもち、役者たちをこれでもかと鼓舞する。戯曲へのクリアなアプローチ、そして舞台を言葉で盛り上げていく、久保井研演出は、明大裏の時と印象がだいぶ異っている様に思う。ツアーの始まりと最後とで、役者が身の裡にしてきたものの量が違うということなのだろうと思っていたが、(それもあるだろうが……)芝居後、久保井に聞くと、テントを張る環境の差が大きいと……。明大裏ではテントに声が通らなかった。ここ鬼子母神は声が通ると……声がどう通るかで、観客の反応も変わってくる。ちょっとした環境で芝居が変わっていく。
 今宵、鬼子母神、観客は笑うのも拍手するのも忘れて見入っている静かな客席だった。笑いや拍手の間をまたず、役者はどんどん掛け合いの熱を高める……舞台は生き物で、日々異る……場所を移せばさらにまた変わる。……それは自分も経験で知ってはいるが、今ほどそのふれ幅が大きいことはないだろう。舞台表現が、人に、地域に、近くなっている……上手く書けないが本能的にそう思う。大げさに云えば、世界疫病下、戦時下の舞台なのだ。それぞれ違う、何かの負をもって観客は客席にいる。その負の有り様は、個によってそれぞれなのだ。だからこそ、どんな条件であっても、舞台上のその日のドキュメント/リアルとして成立することが、まず大切で、そのリアルが舞台を成立させる根底の条件なのだ。そしてそこから舞台表現のコミュニケーションが立っていく……日々の生き様が、表現の一部となっているのだ。演劇は究極[今]を見るものであるが……その[今]には役者たちの今日のやり取りや、場所の今日の環境、その変化も組み込まれている。テントとなるとそれが直に影響される。久保井演出は、その今という刻々にも対応して演出していかなければならない。もちろん見る方も覚悟してその日その日のものとして見る。そしてできたら樋口良澄のように複数回みることだ。そのずれている出来栄えに、役者の演出家の姿勢が見てとれる/感じとれる。
 ここまで書いて、白状するのだが、学生の頃からボクの演劇観は寺山修司によって形成されている。その経過を話すと長くなるので省略するが、今の今まで、身体全部が寺山修司演劇でつまっている。最近、樋口良澄に誘われて唐組を見るようになって……その後、『唐十郎のせりふ』(新井高子)が出版された。『唐十郎のせりふ』で新井高子は詩人として戯曲に接し、テントに通い、唐十郎と話をし……台詞から見た唐十郎を、眼の前に連れてきてくれた。ボクにとっては目から鱗だった……これまで自分の体験してこなかった演劇が、『唐十郎のせりふ』には生き生きと描かれていた。で、吃驚してちょこちょこと唐十郎の戯曲を読むようになった。そこで思ったのは唐十郎はまず戯曲ありきの演劇なのだと。
 寺山修司はというと、おおまかな箱書きを作ると、設定だけで稽古/ワークショップに入る。台詞がないまま、役者は「うじゃらうじゃらむにゃむにゃ」などと声を張り上げながら、たとえば女中を犯すシーンを作って行く。どんどん作っていく。『百年の孤独』では、ゲネプロに近い現場の稽古で台詞のない部分がたくさんあり、そこにダメ出しがでる。えーっ……不思議な感じだ。最後に、寺山修司が一気にその肉体のやりとりに言葉を入れていく。シーンは演出家の頭のなかに全部あるのではなく、稽古で、肉で、作りあげる。戯曲の中に入っている[もの]が唐十郎とはだいぶ異る。寺山修司はボクに囁いたことがある。ボクの演劇は上演がすべて。だから他の人が戯曲を使って演出しても、演劇実験室・天井桟敷の演劇にはならない、と。一回限りの上演性に賭ける寺山修司の演劇には、個としての寺山はいない。少なくとも表には出してこない。意図的に消去している。短歌で寺山修司が[私]を出さなかったように。
 一方、唐十郎は、戯曲に[私]がいる。ここから書くことは、唐十郎に長年、親しんでいる人には当たり前すぎることだろうが、自分としては発見なのでドキュメントしてみる。たまたま樺太つながりの読書をしていて宮沢賢治の『オホーツク挽歌』『春と修羅』を声を出して読んでいた。宮沢賢治は、この作品を詩と云わない、[心象風景]という。その……書き方は――段落落としだったりカッコ( )に入れたりと、かなり時空がずれているものが一緒に進行している……それはどれも賢治の視点であるかもしれないが……時間や立場や考え方がどんどん変わっていく……その経過も描かれているように思う。汽車にのってサハリンを走り、海岸に降り、また戻ってきて書く。どんどん推敲していく。もしかしたら賢治の異る主体が思ったり見ていることを相互にやり取りしながら同時に進行させる――方法なのかなと。そう思った時に、状況劇場で、早口にまくし立てる唐十郎があたまに浮かんだ。ずっと気になっていた唐十郎の語り口。唐戯曲では、役者の対話がぽんぽんとテンポよく短く交わされ、それが続くと、長台詞のブロックがでてくる。状況劇場であれば、だいたいは唐十郎が担当する。その長台詞には――役者Aと役者Bとの会話/やり取りが、あって、それの演出的な視座/ト書きまでもが、勢いよく語られる。つまり唐十郎が、他の役者の対話を自分の口調で語るのだ。そしてその二人の役者のト書きのような描写まで解説してしまうのである……(あ、今、思い出した。李麗仙もこの長台詞語っていた……。状況劇場では唐十郎だけのやり口ではなかったかも……)
唐十郎は、本読みのときに、全員の台詞を読んで聞かせると。(これも聞いた話)唐の口調をみなに落とし込む。唐十郎の戯曲や演技や演出は、一人称複数というような文体(正確に云うとひっくり返っているところがあるのでそうは言えないかもしれないが……)をもっている――ところがある。ここに唐十郎の真骨頂があると感じる。一人で全部の台詞と肉体を表現できる/表現したい、人なのだ。
 ト書きの部分まで演じる唐十郎。言葉騙りの演者である。跳ねる講談師とでも云えば良いのだろうか。戯曲の中に幾層もの自分の声を畳み込んである。唐組になってからの戯曲にそれは少なくなっているかもしれないが……ちょっと把握していない。(誰か? お願いします。もう論じている人がたくさん居るかもしれない……)この唐十郎のさまざまなフェーズの[私]が組み込まれた戯曲を、ほどいて演出する久保井研は、演劇人として大変な人だと思うが、これから、[個]の単位にあっというまに分解する、役者や観客や、演劇について書く人を網なして、舞台を作っていかなければならない時代に、重要で貴重な才能だ。

『秘密の花園』https://note.com/pkonno/n/n8b9f5e8c

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?