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歌舞伎は大丈夫?いやちょっと分からない『江戸の夢びらき』○松井今朝子から十三代目市川團十郎を読む。

 十三代目市川團十郎白猿を襲名させていただくにあたり、「伝統の継承、未来へ」というものが一つのテーマとして私の使命だと考えております。
 私一人が頑張っても芸能は繋がっていかず、やはり子どもたちや若い世代に活躍してもらわなければ、伝統芸能の未来が見えなくなってしまいます。
 ぼたんと新之助が名前を受け継ぎましたので、いよいよ本格的に「伝承への道」を切り拓いていきたいと、今回この公演を開催させていただくことになりました。
 お客様と一緒にこの道を歩んでいけたら嬉しいです。

 これが『伝承への道』というタイトルのお正月興行をうつ、十三代目市川團十郎のコメントである。伝統とか言っているのをちょっと心配していたが、良く読んだら心配はいらなかった。自分が先代からの芸を伝承するとは一言も書いていない。若い方へ、俺の芸を継承したいと書いている。しかもぼたんと新之助に対して。伝統を継承していない十三代目の言うことではないが、歌舞伎界の期待する歌舞伎の流れに従えよ!に対しては無視をしているので、ひとまず安心。子供に継承させるというのは、どうかと思うが。だいたい、先代の市川ぼたんは、かなりの踊り上手なのだから、そこはどうするの?とちょっと聞いてみたいところもある。

 ここまで開き直っているのだから、松本白鸚が、先輩の芸をいったん受け入れてと、わざわざ襲名披露で公式発言をしているのだから、ここに至っても、十三代目は、先輩の芸を引き継いでいない/引き継ぎたくないということで、言っても聞かない海老蔵というのはずっと通してきているのだから、いいかげん、開放してあげれば良いし、もしそんなに自分たちの歌舞伎に海老蔵を合わさせたいなら、松竹に対して、抗議をしたりストライキをすれば良い。あるいは海老蔵を放逐するとか。それだけの事件は起しているのだから、いくらでもできたはず。歌舞伎というのは演出家を立てない、代わりに座頭の演技を演出とするという不思議な前近代の舞台だから、それぞれの役者が、個性を発揮するために、一旦、習ってその通りにやれば、あとは自由にして良い(そんなに簡単なことではないが)というシステムになっている。その一旦をやらないからと言って、あれこれ言うのはどうかなぁと、歌舞伎に身を置いていない自分としては思うのだ。ほうって好き放題にさせれば良いと。それで評論家の渡辺保も、これで歌舞伎はまた危機を乗り越えられると、絶賛しているのだから。お客も満足、評論家も絶賛、松竹もにこにこ、これを現代の歌舞伎として肯定しているのだからそれで良いではないか。(自分が面白がって見に行くかどうかというのは、また別の問題でもあるが)

 歌舞伎の部外者としてもっとも気にかかるのは、歌舞伎という枠組みを外して現代に行われている舞台として、十三代目市川團十郎やこれまでの市川海老蔵の芝居を見たときに、どうにも芝居心の足りない役者と見えることだ。見えるんじゃなくて足りな過ぎる。大晦日に、録画してあった『海神別荘』坂東玉三郎+市川海老蔵を見たのだが…これは生でも見ていて、その時の感想は、あっぷあっぷしながらどうにか最後まで辿り着いた海老蔵に、なんと優しい玉三郎と感心した記憶がある。玉三郎は不思議な役者で、相手役に、獅童とか春猿とか海老蔵とか、余り芝居心のない役者を起用する。どうしてなんだろう。で、その役者たちに優しい。まぁ、それは置いておいて…『海神別荘』オープニングで、京妙、笑三郎がきゃぴきゃぴ、ここぞとばかりに跳ね回って、そこに歌女之丞がでてきてと…愉しい幕開け。で、そこに出てきたマントの王子様、海老蔵。照れてるのか、馬鹿にしているのか、やる気がないのか…大学生でもこうは下手じゃないだろうという芝居下手。基本芝居心が欠如している。襲名披露の『勧進帳』でも幸四郎や猿之助と絡まない。どちらかというと一方的な演技をして、それに二人が受けを作るというような感じ。芝居心が欠けているというところもありながら、絡み下手ということもある。それでも決まりものだったり、型に従わなければとか、やりとりとか、そんなものがあると、急激に役者としてのオーラというかエネルギーが急激に下手ってしまうという…そんな性質の役者なのでは…と思っている。仁左衛門、玉三郎に抑えられての『勧進帳』なら立派にできていると、歌舞伎の現在を維持したい人たちは言うけれど、そんな抑えられてエネルギーを出せない團十郎は、無茶苦茶な演技をする團十郎よりもっと魅力ない。今、思い出したけど、2007年、長塚圭史作演出の『ドラクル』に出演した、市川海老蔵もかなり…だった。相手役は、宮沢りえだったが。

 初代は舞台にでて舞台装置を壊しまくったという逸話をもつ。(伝聞だが)團十郎はそれを許されている家柄なのだから、好きに暴れれば良いのだと、そして他の者たちは、見守れば良いのだと。『江戸のゆめびらき』松井今朝子が描いた初代團十郎の妻、恵以のように。歌舞伎は芸術の要素よりも芸能の要素が強い舞台表現だ。時代と客の意向が大事。あれだけのやんちゃをしてなお、支持があるのだから、それを現代の歌舞伎としないと本当に滅んでしまう。魅力のないものになってしまう。團十郎を野に放つくらいの懐の深さをもっていないと、歌舞伎はほんとうにやばいかもしれない。

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