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鳥の起源を追って/中川多理『化鳥』

 知り合いの歌人の姉に、囁くように聞かれた。
「いつから鳥を作っているのですか?小鳥たちが契機ではないですよね。」
「そうですね。以前に、『化鳥』という展覧会をしていますから…
「『化鳥』は…
「『化鳥』は、ですね…」
と、そこまで云ったときに、歌人がすーっと後ろを通っていって机に坐ってスケッチブックを拡げた。頬に手を当てて歌を詠んで書き留めている。万年筆かボールペンで書いている。修正をしないという前提だ。今、浮かんで言葉が進行して行く。頭の中なのか…スケッチブックの上なのか。
 ノートじゃなくてスケッチブックなのが、魅力的だ。大きなトートバックからとり出した…スケッチと描写と飛翔…。
 感心して見ていて、会話の次の言葉を失った。失ったというより、元々、深く思ってなかった。
ここまで…コロナで若干の隙間ができるまで…けっこうなスピードで走ってきた。このスピードは必要だ。必然的にスピードが落ちたり、立ち止まったりすることは出てくる。それまでは走り続ける——合言葉だった…。
 鳥の起源ね…良い機会だから探ってみようかと。
 作家に聞くのは、余り適当ではないだろう。答えは返ってくるかも知れないが、限定性が生まれる。作家もそこに限定される。もっと自在なところから生まれてきたのだと予感する。

 余力とかズレとかが創作の未来には大事だ。何がヒントになるか分からない。クリアに見えてしまったらそこが頂上、そこが最終地点になってしまう。

 作家に聞いたことがある。『化鳥』はどこから?
澁澤龍彦にそのタイトルがあったかな…。
鏡花にもあるよね。
あるね。
どっち?

 答えてくれたのかもしれないが、覚えていない。相変わらず記憶力は零に近い。
 
『化鳥』でないと駄目? いくつか他のタイトルを提案してみたが、けっこう決心は固く、『化鳥』に落ち着いた。いや『化鳥』に決まっていた。
 澁澤龍彦のマッチョ感に最近は、ちょっとうんざりしているので…少しでも迂回してもらおうとしたが駄目だった。自分も昔は信者だったから、別に澁澤龍彦自体をそんなに気にしているわけでもないが…作家は、今は、澁澤龍彦信者ではない。おそらく…クールに作品や文章を読む。ちなみに鏡花の『化鳥』も良く読んでいる。

 鳥の起源について考察していく——のを今年の目標の一つに掲げた。
けれど、真っすぐ進むと、たどり着かないことが多い。ので、迂回路を設定した。そしたらどうにかなるかなと。
迂回路は『雨月物語』。
 『雨月物語』には、化鳥が出てくるのだが、読み出した時点ではまったく知らなかった。友人の編集者が、村上春樹の最新作と『雨月物語』について仄めかした。何か興味が湧いて…それでも村上春樹を読むのは憚られたので、『雨月物語』を読むことにした。
 その編集者に聞いてみた。「何読んだらいい」もちろんどの現代訳を読んだら良いという意味で聞いた。
ビキナーズ・クラッシクス・日本の古典『雨月物語』佐藤至子編。
を勧められた。勧めてくれたのはもう一冊くらいあったかも知れない。覚えていない。

 ビキナーズは、古典読み苦手な僕にはちょうど良い…と、云いながら、全編を読み終わらないままに、青木正次・訳注(講談社文庫)高田衛・稲田篤信・校注(ちくま学芸文庫)鵜月洋・訳注(角川書店)日本の古典をよむ19・高田衛・校訂訳(小学館)などを手に入れて、併読しはじめた。訳を併読するのを趣味にしている。カフカとかチェーホフとか…とにかくいろいろの訳を読む。

 事情があって池澤夏樹=個人編集の日本文学全集11・円城塔訳も買った。これは論外に駄目だ。まぁ池澤夏樹の羊頭狗肉の編集方針と作家セレクションも問題なんだろうけど…。まぁいいや。

 『雨月物語』は、好きな『白峰』からはじめた。
円位の西行が出てくるので、サブテキストに『撰集抄』を選んで…西行にもう少し立ち入りたい気分もあり…秋成の西行いじりも読み取りたいとも思い…
『撰集抄』西尾光一校注。そしてその訳のお手伝いというか助けに須永朝彦・日本古典文学・幻想コレクション『奇談』を脇に置いた。(『撰集抄』の一部訳があるので)
 須永朝彦の解説に
一応事実の見聞談を…中国の文芸用語を借りれば〈志怪〉しかいという。〈志怪〉より虚構の強いものを〈伝奇〉と称する。
と、書いてあって、目から鱗がぽろりと落ちた。事実に近いところ、それを匂わせるところからの物語と、そもそも虚構性の強い物語は、明解に分けられているのだ。乱暴な比較だが〈志怪〉を幻想文学、〈伝奇〉をホラーというふうに仮にすれば、幻想が次第にぐだぐだになっていって、ホラーになったりライトノベルスになったりするのではないかと、思う。
 
 で、自分としては、本を愉しむっていうこと、そして本当に読んでて愉しいなぁと思うのは、物語の[筋]ではなくて、語りっぷり、世界への持っていきかたである。はなしは飛ぶが、ブラムストーカー『ドラキュラ』は、ゴシックの幻想の名作であるが、日本では長くその前半部分が端折られていた。だからどんどんチープな血を吸うだけのドラキュラが蔓延るのだ。ストーカーの物語は、疫病とルーマニアの奥にいるであろう怖ろしい武将との合体でできている。事実や現実の上、その恐怖の上に立っての『ドラキュラ』なのだ。だから前半が長い。ここが物語の刮目し愉しいところなのだ。
 さらにはなしが飛ぶが、劇団『スタジオ・ライフ』の演出家の倉田淳は、その前半からを詳細に上演した。驚きながらうっとりとした___。さすが物語好きの演出家である。物語を端折らない。演劇ですら出来事が描かれていたら良いということにはならない。歌舞伎も通しが面白いというのは、そういうことだ。
 筋追いをした物語は、コピーを重ねてチープになっていく。伝奇になっていく。伝奇は現代ではライトに二次創作にどんどん軽く薄くなっていく。詰らない。
 
 『雨月物語』は、秋成の歌論が展開されている。西行が連歌で行なったことを、秋成は『雨月物語』でやってみせている。連歌の流れを下の句で止めるとか…。なので『白峰』でも入りの部分が絶妙に面白い。歌枕を並べて旅していく。そこで歌、言葉に入っていくのだ。
 現代語訳するには、歌を意識しながらの冒頭の流れをどれだけ壊さないかが必然となる。鏡花の『高野聖』の入りなどはもう少しドラマティックではあるが、似たような道行だ。幸田露伴の作品にもいくつもある。幻想文学のひとつの在り様だ。ここを筋として端折ると台無しになる。
 
 『白峰』の円位(西行)と崇徳院の歌を使ってのやりとりは、抒情ではなく、非常にロジカルに対話される。ロジカルなのだが、屁理屈のところもあって、次第に噛み合わないようになっていき、物語は面白い。この得体が知れず分からないというところが魅力なのだ。村上春樹は雨月からはぐらかし展開を学んだのではないだろうか。後、思うのは、唐十郎、野田秀樹という劇作家の原作物語を使いながらの、高速訳分からない廻しで客を煙に巻くという[物語]。これ非難めいて言っているではなく、謎のない舞台、分からないところのない小説ほど詰らないものはないからだ。

 さて『化鳥』なのだが、『白峰』最後のほうの山場に顕れる。
崇徳院が空に向かって化鳥を呼ぶのである。

空に向かひて「相模相模」と|叫〈よば〉せ給ふ。「あ」と答へて、鳶のごとくの化鳥|翔〈かけ〉来たり、前に伏して詔をまつ。院かの化鳥にむかい給ひ…

この一節は、もう幻想文学の境地だと…。
自分の主に読んでいるのは、『雨月物語』高田衛・稲田篤信【校注】で、僕は高田衛の解説を軸に読んでいる。(出来の悪い僕は、大学受験をするときに各公立大学の古典の試験問題を赤本で比べ見て、群を抜いて面白い問題をだす大学を選んだ。案の定、受けたときは、男と女が手に手をとって死にに行くことをなんというか…という問いがでた。道行と書けば正解なのだが、試験中に笑ってしまった。もちろん高田衛の出題。おかげで入学できて…でも文化人類学を専攻したので授業にはでずじまいだったが…もぐってでも聞いておけば良かった。僕は、昔も今も文字読みが苦手なもので仕方がない。)
で、ぜひ、高田衛の現代語訳は一度は読んでみて損はない。「相模相模」というのは、高田解説によれば、謡曲による。白峰にすむ天狗の棟梁が相模である。高田訳は鳶のような怪鳥なっている。
 化鳥は、あくまでも鳥である。相模と呼んだけれども天狗とは書いてないのだから、鳥である。ここ重要。

人形作家の鳥の起源を探しての、本読み旅なので…僕はあくまでも化鳥目線。天狗の棟梁の得体のしれない鳥というのが、秋成の描写である。分かんないもの、イメージが一定に定着しないもの、理解できにくいものを、優しい言葉でひと言で書いている。だいだい天狗の棟梁というのは、高田注であって、天狗は、この物語に出てきていない。そしてみなに具体イメージがある天狗をもってきたら、幻想譚が突然、絵本物語になってしまう。姿がぱっと想像できないから良いのだ。絵に描けないから文字で書くのだ。それを簡易な方へ翻訳してはいけない。

これを「一羽の天狗が鳶のように舞い降り」と仮に訳したらだいぶ詰らない。少なくても僕には。
仮に一万歩譲っても、「鳶のような天狗」なら鳶の姿をしていことになるから、まだ鳥のイメージが残っている。だけど天狗はいただけない。謡曲でそうあってもこれは『雨月物語』という、希代の実験物語なのだから。

これと同じで、人形の「化鳥」といいうのは、何か引用物があるのではなくて、あくまでも鳥、化鳥という鳥、だけれども、人形でもあって、鳥の姿をしていても、[人形の鳥]なのであって、鳥の人形ではないということなのだ。

 化鳥のヒントは文学やタイトルにあったのかもしれないが、作りあがってきた化鳥は、鳥と人と人形とのトライアングルの裡にあって、そのどれでもない。強いて言えば人形だ。人形は人を感じさせるが人ではないし、人の代わりはしない。ヒトガタ、形は似ているかも知れない。だが、化鳥という人形を見ると、人に似ていなくても人形、鳥の顔をしていても人形と感じる。

 秋成が『雨月物語』に登場させた化鳥は…非常にエントロピーの低い、そして歴史を通しても使い込んだり、コピーされた続けて擦り切れたりしてこなかった言葉のような気がする。怪鳥というのは、怪しい鳥。怪しいは鳥を人間的に説明している。化鳥は、そういう云いかたをすれば化ける鳥、化けた鳥ということになるが、広く曖昧な部分をもっている。

 意識か無意識か分からないが、中川多理はそうした言葉をつかみ取っていたのではないかと思う。今度、聞いてみようと思う。『雨月物語』が起源なのかと。
…笑って答えないような気がする。起源は中川多理なのかもしれない。

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