勅使川原三郎/『月光画』 「私」と向き合う新たなシリーズとうたわれたその弐。
描線には手の本性が現れる。私はそうおもっている。画家は往々にしてそれを隠す。稀にそれを隠さない天才たちが居る。彼の描線は、手はもうそれを隠そうとしない。
白紙が振動する(彼に云わせればあらゆるものは振動している。振動しているから存在し、輪郭線が現われる/見える/感じられる…ようになる。)
線がはじまり、描かれ、形が浮かび、線が消される。形が朧になり揺らぎ、もうそれはダンスをしている。描かれているのは[それ]ではない[女]だ。彼の本性が描く[女]は魅力に充ちている。ダンサーの…。
線は描かれ消され、消しゴムの滓が、床に散らばり…浮かぶ[女]の姿は二次元の紙上で虚ろっていく。ダンサーはいつのまにか、平面のままに肉体を、身体をもち、揺らいで踊る。消え入って、白の底から顕れて流れる。ジャンプは…しない。(コマ落とし撮影の動画が、投射されているのだ。コマ落としのタイミングは、振付師によって指示されているおそらく…その落とし具合が踊りのtoneを決める。踊りの息の長さを決める。描いているのは彼の手…もしかしたら自動筆記に近い…だが、踊りの振りの軌跡、そのスピードとtoneを決めているのは、彼の決断だ。)
この踊りの息の長さは懐かしい。随行していた頃の…。速さとたおやかさが共存していた頃の。
二次元の白紙に引かれ続ける描線は、像をなぞらず像をtoneで浮かび上がらせる。輪郭線がまったくない…。輪郭線のないまま、像はくきりと白のホリゾントに写されている。いや違う像が立って踊っているのだ。
食み出でて、消え、浮かぶ——像は連なる連続譜を刻んでいく。気がついたか。二次元はすでに四次元になっている。立体と時間が生起している。二次元の紙に四次元のダンスを指揮する振付師・勅使川原の、意外にしっかりとした太い手(牛のような手をもつ画家に天賦の才がある)にもつ指揮棒は鉛筆だろうか。消しゴムも、消しゴムの滓も、余白の白に放置されている。二次元の[女]は身体をもって踊る。もしかしたら躍らされている手の裡で。
輪郭をもたない身体、その踊り。
嘗て全国の劇場を風のように渡っていた勅使川原のその踊りの感覚。
(彼は今は世界を廻ってるのだろう)
日本は名誉を与えるが風の吹く場を与えない。彼は白い紙に自由の風を吹く。そこに創造の端が生まれ、描線が走っていく。小刻みに。
前回の「失われた線を求めて」が「失われた時を求めて」に掛けているなら、線は嘗て描かれて、今、記憶にしかない線、踊りの描線、その軌跡。勅使川原三郎は数多の劇場の闇に、空気の描線、風の裂目を刻んできた。その線は実は失われてはいないのだが、観客に可視ではない。それを形にする行為——だ。ドローィング。
最近の勅使川原三郎の紙に固定されたドローィングは形が整っている。まるで美術家ではないか。いや違う。見えているのは渾沌の、何時間かダンスした後の、最後に見得る一シーンのような象。その背後には描いて消した線がたくさんある。描かれないで存在した線がたくさんある。
それらを集積して形——勅使川原三郎にはダンスである——にする。彼は、美術のように最終形態を目差し提示する訳ではない。アパラタスに展示されたドローィングは踊りの舞台の最後の瞬間。その明りが消える残像の一瞬。そこをじっと見つめれば、そこに存在している信じられないほどの無数の手の動きの、描かれたものや生きものの、動きの軌跡、その集積が見えてくるだろう…それはつまりダンスである。それ以外の何ものでもない。
舞台作品[月光画]の前半に流されたドローィング・ドキュメント映像は、まさに勅使川原の踊りの楽譜であり、踊りの実践である。ダンス・エスキース、または純粋に抽出された舞踏譜のエキスでもある。
遷ろう身体と時。それは絡み合って四次元それぞれの位相を歪める。揺れる紙の上で。(そこには風が吹いているのか…いや描かれたものが振動し揺れているのだ)
最後に白紙に戻り、震える白紙も静謐のなかにおさまり、そして暗転する。
勅使川原三郎、佐東利穂子がそれぞれに登場する闇の中から。
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いつもなら
周辺の昏い舞台に、勅使川原三郎は、ぼーっと発光して存在する。いて、存在して、それが踊り。そして動きがはじまる。
すっと見失った。彼の存在を。発光する身体がどこにいるのか分からない。はじめての経験。こんな日が来るのだと身体は蒼白になる(自分の)。勅使川原はたしかに舞台にいて、踊っているはずなのに、私には見えない。動きを捉えられない。
音もしない、それでいて重い衝撃が視野をシャットダウンした。感覚もなにもかも。微かに肌と肌が触れあうほど近く、それでいて接触することもないその空気の流れはが伝わってくる。しばらくすると気配もない漆黒の完全暗転のなかに立っていた。
地下印刷工場の漆黒の淀んでいるはずの空気は意外にも軽く、私はここに三年いた実感が湧いてくる。ずっと見えていなかったのかもしれない。暗闇にいたのに見えている振りをしたのかもしれない。地下印刷工場は、だいたいが河の傍に建設されるので、漏水を避けるように地下深くまで、柩のような石組みを施す。盛夏には熱を帯びた石組が地下印刷所に灼熱を伝播する。印刷工の身体からでた蒸気は視界を不如意にするほど立ちこめる。冬の最中には…身体からの蒸気が凍って見えるほどの寒さになる。
ここに居るのは、大概自らを閉鎖しにくる者たちか、あるいは牢獄から派遣されて来る者たちだが、だいたいにおいて後者は根を挙げて、もとの所属地に還ることが屡々だ。自らここに入ということは、文撰工を選択するが、それはそれで、かなりの文字的教養を必要とするので、なかなかに適任者はいない。それでいつも取り残されてきた。
早朝に地下に入ると逃走防止のために外から施錠される。それでも命の危険が生じたときのことを考慮されて、壁奥、河側に垂直な梯が設置してある。命危険な時に、どうやってこの7mにも及ぶ梯を這い上がる力があるのかという疑問はあるが、そうなったらまた別の力も湧くのだろう。登って閉じてある上蓋を、下から三回ノックすれば開けてくれることにはなっている。しかし蓋の傍にいつも人が居るとは限らず、はなはだ怪しい約束事ではあった。
その梯がこの奥にあるはずと、私の[意識]は朦朧とその位置をさぐる。ものが見えなくなったまま、この闇に居るのは、余りにもいたたまれなさ過ぎる。梯を昇りきって上蓋をそっと押してみると、施錠はされておらず、私は、河べりのマンホールから首を出してあたりを見回した。運河が見えた。
運河は月光を照していた。
水は満潮で海からと上流からとの力が拮抗してどちらにも流れず、波頭がちぎれちぎれの断片になって、垂直に動いていた。河は韃靼海峡のように深く黒く波頭の断片に月光があたり、黒とあい合わさって蒼く反射していた。森永純の海のようなタール色の運河はの凪ぎ時は、凪と云いながらスクラムの前線であり、埴谷雄高の月光のように光を長く引きはしなかった。それでも河は薄ら明るく、見えなくなった場から離れれば、絶望の目も少しは和らぐというものだが、その癒やしも、一瞬だろうという確信がある。
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絶望のままに劇場をでて両国橋を渡り、川の縁を柳橋の方へ歩き出した。今夜、外は風もない。
『死霊』(埴谷雄高)を読めば少しは客席への復帰の足しになるのだろうか。いや、そもそも[私]が、勅使川原三郎の客席にもどることに意味があるのだろうか。頭を動かし資料を読むという、そんな方法での追随を禁止して、勅使川原が向おうとしている先はどこなのか。
それを追いかける必要と意味がこの老いぼれた目の、自分にあるのだろうか。パンフレットには、深淵なる目標の決定的な通過点として「私」と向き合うシリーズだと書かれていた。私の内的世界をダンスと絵画を通して現前に形にすべく…。
「私」。
モダンダンスと勅使川原三郎の踊りの根底的な違いは、モダンダンスが「私」を通じてからの表現であるということに対して、勅使川原三郎は近代的な…つまりモダニズムの[私]を入れ込んだ身体/器ではないようにしてダンスをしてきた違いにある。テーマがあってもそれを一端自分に取り入れて、それを「私」を通じて表現するのがモダンだ。(…大まかな捉え方だが…)に対して、勅使川原三郎は、個人の私は出さないで表現してきた。架設の勅使川原三郎を、勅使川原三郎が振付動かすようなやり方だ。もちろん勅使川原にも私はでる。身体は勅使川原のもだから。でもしつこく云う。勅使川原三郎の身体は架設なのだ。
勅使川原三郎はいま、[私]を身体に置いて踊っているように思う。どのような[私]か。もちろんモダンダンスの[私]ではない。もっと原理的な勅使川原のような気がする。正直、このあたりで勅使川原三郎を見失って僕は、きっと暗闇の世界に陥ったのだろう。
勅使川原三郎の[私]は、異を日常にもった天才の[私]であり、それは、僕には見えないのだ。
例えばの話、勅使川原の[私]は、老を踊らない。一気に死世界に踏み込んでいる。問題なのは軟弱な僕の方で、今、感覚の中心にあるのは老から死というスタンスにある意識だ。その感覚/意識は、身体が突如として予感するものであって、ある意味、運命が押しつけるのであって向こうから来る。「失われた時を求めて」も「ボバリー夫人」もその意識が作品をまとめることになった。それは辛うじて共振することができる。いやむしろ老から死の感覚を、もらったことによって「失われた時を求めて」や「ボバリー夫人」がすっと身体に入る、つるつると音をたてて動き出す。他にもあるカフカやチェーホフは若かったけれども晩年の作が多い。それらを書く時に、二人はどこかで死を認識していた。そしてそれを強烈に開いたのだ。読者の前に…。僕は文学読みでないので、きっと他にもたくさんあるだろう。
勅使川原、架設の身体での老は表現する。老というか老の中にある強烈な生であるかもしれないが…シュルツの描く父親とか…しかし勅使川原自身の老は舞台に存在しない。それを出すことを絶対的に拒否しているからだ。(たぶん)
僕らの世代は、老をださないアーチストが多い、飴屋法水も笠井叡も田中泯も…大竹伸朗も森村泰昌も…音楽で云えば坂本龍一もそうだろう。侘び寂に枯れない。弱い肉体を見せない。そして[私]を見せない。
ところが、自分自身は、老衰にとらわれているので、目も老衰し、よたってしまって、こんなことになったのかもしれない。しかも、これは後から、資料を読んで、目ぼけしてい我が身に情けをかけているに過ぎない。もうついていかれないのかもしれないし、別な意識をもって生きなければいけないのかもしれない。実は、身体表現を専門に見る人たちの(評論家たち)年齢による衰えをここ十年の間に目の当たりにしてきた。そこに自分も突入しているのかもしれない。それゆえの暗転。暗落という言葉はないが、そういうことが起きたのだろう。暗落…コンピュータが突然、ブラックアウトするあの感じ。
強い表現意図をもって[私]を描こうとしている勅使川原三郎。「木洩れ月光」とでもいうべき小さな蒼白いぼんやりとした環をもった点と点の顫えに顫えつづける間を歩いているのであろうか…。