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『薔薇色の脚』中川多理人形作品集/日々是徒然②

「顔を手に入れる」川野芽生


この人形たちに会う前、彼女たちはこんな顔をしていたか?
否、彼女たちに顔はあったか?

あるいは、声。
美的な文体で書かれた作品において、登場人物の声は邪魔になることがある。『薔薇色の脚』解説・川野芽生『顔を手に入れる』

 川野芽生の評は、詩のように美的な文で書かれている。けれどもそれらは、詩でもなく、歌でもなく、評する文になっている。評する対象の中川多理の人形にロジカルに、鋭く深い切れ込みを入れる…その前に、山尾悠子の書く小説にも…的確に。『薔薇色の脚』に寄せられた川野芽生「顔を手に入れる」は、稀に見るクオリティをもつ批評である。しかも鮮やか過ぎてその手さばきすら見えぬ…いや見えないようになのかもしれない…そのカッティング・ラインには、これまで誰も創作人形に対して、向けたことのない視点。
 川野のその言葉をもって、創作人形を新たに考察することをしてみたい。私はすぐにそう思った。その誘惑を断ち切れない、ほどの、魅力ある言葉で書かれているクリティックは——ここから人形を語るということが、新たにはじまるのだと誰もが納得する——時代を撃つ輝きを放っている。時代はこうして進化していくのだ。
 さて、川野の視点による人形考察を、自分なりに今すぐ始めてみたいと今、云ったが、それは『薔薇色の脚』に収録されている川野芽生の「顔を手に入れる」を、読者それぞれが読み終わった頃——おっとりと、ひそやかに、誰の読書にも影響与えることなく、どこかにこっそり書き記したいと思う。新しい、そして鮮やかな視点は、誰の手にも渡さず、汚されず、読んで、自らの視点の変化を楽しみたいものだと、思っている。きっと、自分以外の読者もそう思っているに違いない。
 潜入観念もたずに、見る、読むということは、人形や人形を書く文章に対して、とて大切な態度なのだ。

 周知のように、山尾悠子と中川多理は、コラボレーションを行うことを前提に『新編・夢の棲む町』を共同した。川野芽生は、そこにも「薔薇色の、言葉と肉」を寄せている。そして山尾悠子が、妹本と名づけた『薔薇色の脚』の「顔を手に入れる」と合わせて読むことを強くお勧めする。
 川野芽生は、山尾悠子の小説を、文字をなめるほどに慈しみ、読破し尽くしている。(想像だけれど)。そして同時にある時期から、中川多理の人形を見続けている。見て把握し感じるという視覚の能力にも長けている川野芽生であるのに、川野は何時間でも中川多理の人形の側を離れずその前に居続けて、瞳を覗き込んだりしている。
 人形の印象を受けそのままに無意識域に書き込みを行いつつ、目は一旦言葉の記述に羅列して、また別の脳の領域に記憶する。そしてそれらに影響を受けることなく人形の全体印象を海馬に写し込む——などの3Wayを1つに動かしているように…人形を見る川野を見ていると…僕には思えるのだが、それもまた僕の妄想にしか過ぎないかもしれない。それほどまでに、川野は全脳全霊をかけて人形に対峙している。
 川野には、見えないものも見えていて、聞こえない声も聞こえていて、それは長いこと人形を見ていた僕にはまったくない能力だ。深読みしたものでもなく、見る側の[私]が見ている妄想でもなく、確実に人形側の個性を見つけていくその視点に出会った時、川野は、人形の側にある目ももっていると確信した。その意味においても川野は人形になりたいし、なっている。
 人形は、見るもの欲動を引き出す傾向があって、暴力性や執着心、見栄や虚言を暴走させ、人にあらぬ人だからと、猛威を振るったりもする。川野は人形として人形を見ているのだ。これは誰にも出来ることではなく、誰にもできないことである。
 是ほどまでに山尾悠子の小説を耽読し、中川多理の人形を慈しんだ人も世の中には居らず、山尾悠子と中川多理の本を巡る創作は、川野芽生の言葉によって、本という現場で、二人の作品を、新たな姿をもって、見せてくれるのだ。二冊の本は、同時に企画された構築物ではなく、都合あって二冊となったもので、そこには時間経過とやりとりがあって…そしてその端境を、その経過を全く知らないままの川野芽生が、時と変化と本質を文に反映しながら、しなやかに繋いで、三人目のコラボレーターになっている。
 だから、『新編・夢の棲む街』と『薔薇色の脚』の山尾悠子、中川多理の作品を合わせたあと、川野芽生の二つの文章を繋ぎ読むのが、至極の快楽ということになる。まずは、そのことをお勧めしたい。

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ところで、中川多理の人形だが——。
人形を見る時には、先入観を棄て、是非、DNA植え付けられている(そんなことはないと思っているが)さまざまを棄てて(往々にして男は怖い、女性は可愛いと見ずに云う。もちろん逆もある)

 一緒に何度も仕事をしたことのある、現代美術の著名なキューレーターが、
「私は人形は見ないわよ。気持ち悪いから」
と、パラボリカ・ビスで展示していた中川多理の人形を見ずに拒否したことがあったが、現代美術に対して、その作品がいかにヘボでも、その関係者に切って棄てるような発言は絶対にしないだろう…しかも声をだして…女性キューレーターが、嫌悪顔に中川多理の人形のキューレーションしている私に対してそう言うのである。人形なら人間の潜在嫌悪を出しても良いと思って、反射的に行動し発言するのだろうか。人形は美術から差別を受けている。雑誌『夜想』がグロテスクだからどろどろしていて生理的に受け付けないと言われ続けたのと一緒の話。
 人形に対するその生理、一旦外してもらえないだろうか。コンセプトとか言語を使ってクールに仕事をしているジャンルの人程に限って、人形に対して、的外れな自分の生理を発揮する。偏見がある。騙されたと思って食べてみて…という云い方があるが、同じく、騙されたと思って、じっくり人形を見てみて欲しい——と私は云いたい。創作性の高い人形は、じっくり見ていると、その創作部分から伝わってくるいろいろがある。受取るのもこちらから読みとりにいくのでも、どちらでも構わない。じっくり見て欲しい。
 実物が…というなら、是非に作品集『薔薇色の脚』の人形たちを、『小鳥たち』『新篇・夢の棲む街』(山尾悠子)と比較しながら、じっと没入して欲しい。人形は、眺めるのではなく、一対一、対峙してポジションをとってはじめて[見る]がはじまる。
 中川多理は、3.11の直ぐ後に『白い海』のシリーズを創生して以来、ここ10年くらい物語の中の少女、や、青年たちの人形を作ってきた。どのように小説にアプローチしてきたかは、何度も何度も書いてきたので、ここには書かないが、小説と人形には、見た目少しのずれがある。そのずれによって、中川多理の人形の個性が手に取るように分かる。そして山尾悠子の小説にもアプローチが、少し可能になる。中川多理が、小説にアプローチして人形を作っているからだ。そのずれの中に鮮やかなメスを入れて文を書いたのが川野芽生だ。メスはかなり深部にまでとどいている。
 中川多理は、山尾悠子の文章を得て小説/物語の中の少女——という表現を究極にまで高め、ある種の限界域にまで達している。山尾悠子の二つの小説に対して創作した、中川多理の人形は、ある金字塔を建てている。女性作家三人のトライアングルが、微妙にバランスをとらないままに、屹立しているという奇蹟をぜひ、体験して欲しい。

そして、中川多理、ここから素材をビスクにかえ、また新たな地平に向うとしている。

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