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中川多理 Favorite Journalポール・エリュアール広場 2番地/『サハリン島』/20221201

 妨害にあって二、三日休んでいた散歩を、再開しようと外にでたら生憎の雨で、寒さが一段と厳しくなっているのを感じる。インフラ攻撃を受け極寒の夜を強要されているウクライナの厳しい状況を連日TVが伝えている。冷風をよけてPassageの径、ポール・エリュアール広場 を過ぎていくと、2番地の本棚に紅背の黒い本が見えた。昭和30年に出版されたチェーホフ全集13(中央公論社)。
 「シベリヤはどうしてこう寒いのかね?」「神様のおぼしめしでさ」と、がたくり馬車の馭者が答える。____『シベリアの旅』。1890年7月5日、わたしはわが国東端の地点の一つ、ニコラエスク市に、汽船でついた。アムール河はこの辺りでは、きわめて幅広く、海までわずか29キロを余るところになった。_____『サハリン島』この二篇が収められている。チェーホフ全集(中央公論社)は今から70年弱前の出版に係わらず、おしゃれで版組が読みやすい。全集なのに新書判というもの気に入った。訳は神西清の個人訳で、チェーホフ生誕100年を記念して刊行準備された。しかしながら53歳の若さで神西清は、亡くなり全集の訳は弟子の池田健太郎と原卓也に託されることになる。池田健太郎は、チェーホフに身を捧げた研究者で、全集訳は見事に仕上げたものの、チェーホフの研究半ば50歳にして急逝する。どこかで池田の素晴らしい仕事を紹介することもあるだろう。
 さて、『サハリン島』へ向うチェーホフ。モスクワから鉄道で出発し、ヴォルガ河を舟で下り、さらに鉄道に乗り換チュメーニというところのたどり着く。そこからスレテンスクまでの四千数百キロを馬車を乗り継いで行き、そこからアムール河を汽船でニコラエスクに着く。それが『サハリン島』冒頭の部分になる。そこから先は、『サハリン島』に書かれているように、ニコラエスクからはバイカル丸でサハリンに向う。当時は、まだシベリア鉄道がなかったので、四千キロの馬車旅は、もうすでに喀血がはじまっていた30歳のチェーホフには、過酷すぎる旅となった。悪路に揺られ身体中が板のように硬直して、まさに命がけの旅となった。サハリン島への直接の目的は、流刑地・囚人島であったサハリンの囚人調査である。チェーホフは、印刷局で自身の12項目を書き込む調査カードを用意し、囚人や移民の聞き取り調査をしている。サンプルの数は1万に及んだ。
 すでに流行作家として名をなしていたチェーホフが、何故サハリン島へ…という誘惑の疑問には、数多の批評家、研究者が頁を費やしている。自分は研究者ではないので、もちろん追求も研究もしないし、[何故]の研究を読んだりしない。希有の作家は、誰にも想像ができないような革新的な感覚をしている。意志も強い。そんな作家の[何故]を無理やり作り出すと、作品そのものが見えなくなる。もともと読みきれないところがあるのに、希有じゃない人間の読みなんか挟み込んだら、迷走読書になる。もし読み切れなくて迷走するなら自身の感覚で迷走したい。自身の未熟で迷走したい。カフカとかチェーホフとかモダニズムの旗手に対して、何を書きたいのかとか、何故書いたのかとかは問わないほうが良い。書かれた文字に正対することが基本形になる。
 ちなみにチェーホフは、三ヶ月の調査を終えたあと、サハリン、香港、星港、錫蘭、オデッサを船で渡ってモスクワに戻っている。途中、日本にも寄る予定であったが、1890年といえば、日本ではコレラが蔓延し3万5000人の死亡者を数えている…避けて上陸はしなかった。今、この過酷な旅程を見ると、最初から船でオホーツク海から入れば良いではないと思う。その方が楽なのは明かだ。行き帰り同じ旅程になってしまうが。チェーホフは、ロシア横断するという過酷さを身に受けたかったのだ。フローベールやネルヴァルが旅行記を書いたあとに文学者としての手が上がるというのは、チェーホフにもあるかもしれないし、実際、『サハリン島』はチェーホフのターニングポイントになっている。もともとチェーホフ、筆は立つ。書きなぐったユーモアたっぷりの新聞や雑誌記事で家族を食べさせていたのだから。作家として名も出ていた。そういう文章ではなく違うものを書く(書けるのだがそうなっていなかった)ために何かを振り切ろうとした行為に結果としてなっているが、それを目的にはしていない。無意識の意識のようなものに駆られて、しかしながら結構、綿密な準備をしている。百冊にも及ぶ文献を読んでいるし、あちこちに手を廻して調査を自由にできるようにも働き掛けている。
 サハリン島ではこす辛い、性格のきつい囚人たちが、チェーホフには心を開いていろいろ丁寧に話していることが証言として残っていて、農奴の息子から苦労して生活のために小説・戯曲を書いたチェーホフには、他のロシアの作家たちとは違う、目線の低さがあった。(それは本人も自負している)人の心をとらえ開く不思議な魅力をもった人であることが伝わっている。サハリン島での記述には、チェーホフらしさが随所にでていて、疫病の防疫に繋がる衛生のことを気にして、トイレの構造や衛生状態を日々、書き連ねていたりする。サハリンの山火事で森林資源が危機に陥っているとか、伐採が野放図すぎるとか指摘している。サハリン島は森林資源の豊富なところで、北原白秋『フレップ・トリップ』にも林芙美子『樺太への旅』にもサハリンの森についての記述がある。北原白秋や林芙美子が訪れたサハリンには日本軍と王子製紙の社員が、大挙して跋扈していた時代で、北原白秋はノンシャランと差別主義者の行動と発言をするが、林芙美子はこんなに山を禿げ山にしてと嘆いている。
 チェーホフは、若い頃から、森にひとかたならぬ思いがあって、1889年29歳のときに『森の主』という戯曲を書いて大不評を浴びる。もう二度と戯曲は書かないと拗ねまくる。翌年の1890年30歳のときにサハリン島に行くのだから、頭の中に森はこだわりとして残されている。ちなみに不評なのは、森のことがらが、多すぎて、観客がついてこれなかったというのが、理由だと思う。この『森の主』を38歳のときに書き換えたのが『ワーニャ伯父さん』で、ほぼほぼ『森の主』の構造や台詞が残されている。森に関する部分が削られている。それでも若干の部分は残されていて、明日森の営業所で密会しようなんていうシーンがある。何で森?まぁワーニャ伯父さんの管理しているのが森だからというのもあるが、とにかく[森]なんである。『サハリン島』を丁寧に読みながら、サハリン島を旅していくと、チェーホフの文学、戯曲の文体的な魅力が形成されている感じを何となくつかめてくるので面白い。

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